> 2004/12/21 (火) 08:21:15 ◆ ▼ ◇ [mirai]> ここであえてチャンコロを分類しいかなる態様のそれを私が忌避するのかについて
> 考察しようと思う(´ー`)
こうして私は、すべての問題は、重大なものでも些細なものでも、
いつも同じ一つの方法を適用することによってけりをつけられるということを学んだ。
その方法というのは、問題の伝統的な二つの見方を対置させることにある。
まず、常識を正当化することによって第一の見方を導入し、
次にその正当化を第二の見方を使って崩し、
最後に第一を第二のものが、
いずれも同じように部分的なものであることを示す第三の見方の助けを借りて、
どちらにも優位を与えることなく、退けてしまうのである。
第一のものと第二のものは、
言葉の技巧によって同一の実在の相補う二つの側面に還元することが出来る。
たとえば、フォルム[形]とフォン[内容]、コントナン[含むもの]とコントニュ[含まれたもの]・・・・など。
こうした修練は、思考する変わりに一種の駄洒落を弄することであり、
つまりは言葉の上の問題だけになってしまう。
すなわち、それは用語の間の類音、同音、多義などといったことだけであり、
それらは次第に純粋に思弁的な見せ場を作り出すのに役立つことになり、
立派な哲学の研究とは、それを上手に行ったものということになるのである。
レヴィ=ストロース「悲しき熱帯I」
哲学でなくても神妙な思惑をめぐらしてるつもりの時に
こういうことをやることはあるな(;´Д`)そして大抵は何も生み出さない
昨日せっかくせっせと本から書き写したのにレスつかなかった(`Д´)
参考:2004/12/21(火)08時18分49秒