> 2001/12/03 (月) 03:05:45 ◆ ▼ ◇ [mirai]> > 徒と思うに彼の体系を拒絶する場合において所与を始点として存在を否定せしめんとする
> > 行為は彼の体系を更なる此の体系へと移すに過ぎないのではなかろうか。
> > であるならば其の行為は彼の体系を肯定せしめ自らの存在様態を彼の体系下の様態へと導
> > き遂には自らの言説すらも否定されると言う逆説を引き起こす非現実的な行為としての表
> > 現に過ぎないのではなかろうか。
> なるほど確かに構築という物語に対する否定が叫ばれる中においてデリダが編み出した強
> 引にして傲慢なる手法が脱構築でありその中に一面の真実があるとすれば体系下において
> の体系批判つまりは言説批判と言う手法は虚しいものであるのかもしれない。
> だが我々は同じ文明を生き同じ集団にあって同じ生活を繰り返す存在でしかないならばそ
> して由に完成された体系を夢想し希求してきたのであるとすればその中にしか我々の行為
> 言説思想はありえないのではないか。
> 上アドレスの彼の些か知性に乏しく想像力豊かな批判にも一面的な方法論的正当性はある
> のではないか。
デリダ翁の云う脱構築なる手法は結果としての他者を容認する物であるがしかし問題は上
頁の彼が一体何を相対しせしめたのであろうか。彼には他者に対する認識其の物が決定的
に不足してある。問題は之が自我と他者とに回収され其処に彼は如何にして彼の存在様態
を投げかけるのかと云う命題だ。之は言語論よりも存在論的問題として顕れてくる物では
ないかね?
参考:2001/12/03(月)02時56分47秒