>  2001/12/03 (月) 03:14:16        [mirai]
> > なるほど確かに構築という物語に対する否定が叫ばれる中においてデリダが編み出した強
> > 引にして傲慢なる手法が脱構築でありその中に一面の真実があるとすれば体系下において
> > の体系批判つまりは言説批判と言う手法は虚しいものであるのかもしれない。
> > だが我々は同じ文明を生き同じ集団にあって同じ生活を繰り返す存在でしかないならばそ
> > して由に完成された体系を夢想し希求してきたのであるとすればその中にしか我々の行為
> > 言説思想はありえないのではないか。
> > 上アドレスの彼の些か知性に乏しく想像力豊かな批判にも一面的な方法論的正当性はある
> > のではないか。
> デリダ翁の云う脱構築なる手法は結果としての他者を容認する物であるがしかし問題は上
> 頁の彼が一体何を相対しせしめたのであろうか。彼には他者に対する認識其の物が決定的
> に不足してある。問題は之が自我と他者とに回収され其処に彼は如何にして彼の存在様態
> を投げかけるのかと云う命題だ。之は言語論よりも存在論的問題として顕れてくる物では
> ないかね?

ここは話を拡大させるのは止めよう。確かに存在論的問題を含むかもしれんがただここで
は彼の体系批判という方法論のみを議題としよう。
問題は彼の幼稚な批判によって自らその幼稚性を明らかにし彼が擁護しようとしたものを
貶める必然性をその方法に潜在しているということだ。彼はその点に盲目であるようだが
その盲目は彼の素養や2局という習慣文化に因る所もあろうが大なる所はやはり体系下での
批判というそこにこそあると断じるな。

参考:2001/12/03(月)03時05分45秒