2001/12/06 (木) 15:41:04 ◆ ▼ ◇ [mirai]マノウォーの歴史は1980に「ロス・ザ・ボス・フリードマン」と「ジョーイ・
ディマイオ閣下」が出会った事から始まる。
ロスが昔在籍していたバンド、ディクティターズはブルー・オイスター・
カルト(以後BOC)の子分的バンドとして知られ、その後シェイキン・スト
リートに加入したのも当時BOCのプロデューサーだったサンディー・パ
ールマンの要請によるものだった。その後シェイキン・ストリートはブラッ
ク・サバスのサポートとしてサーキットする。
ジョーイ閣下が以前在籍していたTHUNDERは元ELFのデヴィット・フ
ァフスタイン(後にTHE RODS結成)と閣下が結成したバンドだったが、
ジョーイがライヴ中にステージ上で火傷を負ってしまい解散、その後閣
下は二度とこの様な事が起こらないようにパイロテクニックについて研
究するようになった。その後当時ブラック・サバスのヴォーカリストだった
ロニー・ジェイムス・ディオの要請でパイロテクニシャンとしてブラック・
サバスに同行する事になった。その時に閣下とロスは出会い、楽屋で
ジャム・セッションを試みた。(この時閣下はギターのピッキングよりも速
くベースをプレイしたという)そしてツアーが終わった後に2人は再開
し、新バンド結成を誓うのだった。
その後オーディションによりヴォーカリストを元THE KIDSの「エリック・ア
ダムス」に決定し、バンド名をMANOWARと命名、そして最後にドラマ
ーをフロリダの「ドニー・ハムズィク」とした。その後1日約8時間もの練習
を2ヶ月積み、オーコイン・マネージメントと契約、配給をリバティーとし'
82年に記念すべき1st「BATTLE HYMNS」を発表する。
しかしその後マノウォーにオーコインとの契約をきられてしまうのと、ドラ
ムのドニーの脱退という2重の危機がおとずれる。そこでマノウォーは
新しいドラマーに「スコット・コロンバス」を迎え、'83年にジョニー・Z率
いるインディーズレーベルのメガフォース・レコーズと契約、英国の配
給を「MUSIC FOR NATIONS」として「INTO GLORY RIDE」を発表す
る。このアルバムは(英国を含む)ヨーロッパで高い評価を得た。同年、
彼らは12インチシングルの「DEFENDER」を発表する。(後にニューバ
ージョンとして5thアルバムに収録される)
そして'84年にマノウォーは「HAIL TO ENGLAND」を発表する。この
アルバムはカナダで12日間で録音されたものだという。同年3月、彼ら
は初の全英ツアーを決行する。この時記録的とも言える動員を集め、
この時にVIRGIN傘下の10レコーズが彼らに興味を示し、ついに念
願のメジャーレーベルとの再契約に成功する。
そして同年9月に「SIGN OF THE HAMMER」を発表する。実はこのア
ルバムのレコーディング自体は10レコーズとの契約以前に終わってい
たらしく、内容的には過去最高と言っても過言ではないほど素晴らしか
ったのだが、何故か商業的に成功せず、10月から11月まで続いたヨ
ーロッパツアーの動員も芳しくなかったようで、結局これ一枚で契約を
切られてしまう。
マノウォーがシーンに復活したのは'86年4月のモーターヘッドのヨー
ロッパツアーのサポートとしてだった。その後彼らはショーケースギグに
現れたアトランティックのA&R、ジェイソン・フロムと契約を交わし、'87
年2月に約2年半ぶりとなる新作「FIGHTING THE WORLD」を発表す
る。
そして翌年、彼らの代表作として名高い「KINGS OF METAL」を発表。
が、レコーディング終了後、マノウォーオリジナルメンバーの1人でセカ
ンドソングライターのロス・ザ・ボスが音楽的嗜好の食い違いにより脱退
を表明する。ロスはその後マニトバズ・ウィンドキングダムに加入、その
後自らのバンドザ・パックを結成するが、その後の足取りは不明であ
る。(ちなみに、ジョーイはロスがリムジンドライバーをしていると言う
が・・・)なお、後任ギタリストとしてロスの友人である「デイヴ・シャンクル
」が加入する。
以下続く・・・・