2002/01/26 (土) 07:34:50        [mirai]
主水の圧倒的な戦闘力を目の当たりにした吉蔵は、一人辰造の屋敷から逃げ出した。
本来なら仲間と一緒に屋敷に篭るべきだったのだが、予想外の事態にすっかり気が動転してしまったのである。
まさか、こんな時に殴りこんでくるとは思わなかった。
まさか、「三人目」があの男だとは思わなかった。
まさか、「三人目」があれほどの凄腕だとは思わなかった。
虎の側近として寅の会を仕切ってきた吉蔵だったが、今まで「仕置人」として自ら殺しに手を染めたことはなかった。
裏稼業がどんなものか「知って」はいたが「実感」してはいなかったのである。
だから、このような事態に直面した時に腹が据わりきらない。
元々そういった資質を持っていなかったとも言えるが。
虎が吉蔵を後継者に据えようとしなかったのは、そこを見抜いていたからなのである。
走りながら後ろを振り向いてみる。
追手の姿はない。
吉蔵は、ほっ、と一息ついて足を止めた。
背を屈め、深く息を吸い込んでそれを吐き出すと、恐怖で全身が震えだした。
今まで夢中で全速力で走っていた体はいっぺんに竦み、思わずその場にへたりこんでしまう。
或いは、この時無我夢中でずっと走り続けていたのなら、この轍(わだち)の音を聞かずに済んだかもしれない。
がらがらという大八車の音が、こちらに迫ってきていた。
それに気づいて顔をあげ、音の方向を見やった吉蔵の全身の血は、一瞬にして凍りついた。
大八車の上に乗って鉄砲を構えた巳代松が、無表情のままこちらに向かってくるのである。
車を押す正八、巳代松の後ろで鉄砲を構えさせているおていの姿は、吉蔵の眼には入らなかった。
殺される!
先ほどまでとは比べ物にならない恐怖が、吉蔵を突き動かした。
しかしさっき脱力してしまったため、体が思うように動かない。
それでも覚束ない足取りで、なんとか逃げようとする。
間合いが狭まりきった時、吉蔵の命は終わる。
その事を十分にわかっているから、とにかく走る。
五間。
正八は汗まみれになりながら、必死で大八車を押す。
四間。
吉蔵を見据え、巳代松に竹鉄砲を握らせて構えをとらせるおてい。
三間。
吉蔵と巳代松の間合いは、確実に狭まってきていた。
ニ間半。
無表情で仕置相手をじっと見詰める巳代松。
そして・・・
二間。
射程距離内。
強烈な破裂音。
断末魔の悲鳴。
崩れ落ちる標的。
轍の音が止まった。
正八は倒れ伏した吉蔵に駆け寄り、様子を伺う。
「おてい、やったぞ!」
喜びをこらえきれないといった表情で、正八はおていと巳代松に駆け寄った。
おていも涙ぐんで、背中から巳代松の肩に顔を伏せた。
巳代松は一人、焦点の合わない目でぼうっと正面を見ていた。
あたりには、おそらくこれで最後であろう火薬の匂いが立ち込めていた。