2002/01/26 (土) 07:41:38        [mirai]
一人で納屋に駆け込んだ辰造は、閉じられた戸の格子窓から、外の様子を伺っていた。
まだ、主水が迫ってくる様子はない。
懐の匕首を抜き、臨戦体勢をとっておく。
・・・裏の世界に生きる者にとって、この言葉を吐くことは禁句である。
ありとあらゆる事態を想定しておくべきこの世界において、自分の能力の無さを表す言葉であるからだ。
しかし、これ以外に今のこの状況を表す言葉は見つからなかった。
「予想だにしなかった事態」。
「三人目」があの男とは思わなかったし、この時機に殴りこんでくるとも思わなかった。
あの男のことは、同心を辰の会に引き込もうと考えた時に、一度調べあげた。
南町奉行所同心・中村主水。
佐渡金山奉行所に勤めた後、江戸に戻って中村家に婿入りして北町奉行所詰めとなり、現在は南町奉行所定町回り同心。
奥山神影流免許皆伝、他様々な流派の剣術を極め、相当な切れ者でもあった。
が、持ち前の正義感が仇となり、不正のまかり通る奉行所の現実に落胆、以後「昼行灯」を決め込む。
そんな主水は、辰造が仲間として求めていた人間ではなかったので、結局接触することなく、代わりに諸岡を引き入れたのだ。
その中村主水が「三人目」だったとは。
確かに今までなされてきた殺しの数々、確かに免許皆伝級の腕を持つ侍の仕業だと考えれば合点がいく。
鉄達が今まであれほど上手く仕置を成し遂げられてきたのも、同心である主水の後ろ盾があったからなのだ。
そして辰造は腹を決めた。
これから江戸に残って辰の会を続けるか、江戸を出て一からやり直すか、どちらにしろここであの男は倒しておかなければならない。
「町方の旦那と結びついてりゃ、万事好都合だ。恐いものはねえ。」
かつて辰造が諸岡に言った台詞であるが、それは裏を返せば、町方を敵に回せば恐ろしいことになるということなのである。
ましてや相手は諸岡のような小悪党ではなく、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた手練なのである。
だから、ここで中村主水を仕留める。
正念場だ。
不意に、背中に何かチリチリする感触を覚えた。
何かが背中に当たったわけではない。
この部屋に流れる不穏な気配を感じ取ったのである。
「一人目」は、諸岡に仕置の現場を抑えさせ、拷問の末に生ける屍と化した。
「三人目」は現在この屋敷で、手下の仕置人達と激闘を繰り広げている。
では「二人目」は?
右手を黒焦げにされてこの納屋に放り込まれ、気を失って横たわっている、はずである。
嫌に予感と共に後ろを振り返ってみると、そこには・・・
黒焦げの右手をかざし、無表情でこちらを見据えている鉄の姿があった。
いかに百戦錬磨の仕置人とはいえ、利き腕を焼かれた満身創痍の状態、怖るるに足りない。
普通ならそう考えるだろう。
しかし辰造には、窓から差し込む月光に照らされた幽鬼のようなその鉄の姿が、恐ろしく見えてたまらなかった。
主水より前に、鉄を倒さねばならない。
腕を引き、その後鉄の腹めがけて匕首を突き出した。
鉄は左掌を楯に、辰造の攻撃を防ぐ。
匕首の貫通した掌から血が滴り落ちる。
不意に、鉄の足が辰造の腹に当てられた。
そして辰造の体を一気に蹴りはがした。
辰造が匕首を握った手を離さなかったため、鉄の左手は縦に大きく裂け、血がダラダラと流れ出した。
そんな事を気にも止めず、すぐさま鉄は辰造に襲い掛かった。
しかし辰造は、鉄の突進に合わせて自分も踏み込み、懐に入り込んだ。
体を勢いよくぶつけ、匕首を腹に叩きこむ。
もしここで鉄の方に向かわず、背中を向けて逃げていたなら、逆に鉄に掴まえられて背骨を折られていたことだろう。
外道とはいえ、辰造も凄腕の仕置人なのである。
刺した匕首に捻りを加え、鉄の腹を容赦なくえぐる。
鉄の体がビクリと震えた。
勝った!
辰造はそう確信し、体を離そうとした。
その瞬間だった。
鉄の左手が、辰造の肩を強く掴んだのである。
体が離れない。
肩を掴むその力は、まるで死に損ないとは思えないほど強いものだった。
そして辰造が最期に見たものは、眼前に迫りくる、黒焦げになった右手であった。
必殺骨外し。
鉄の右の人差し指と中指が辰造の胸椎に叩きこまれた。
ゴリゴリという骨の外れる音と共に、辰造は一気に息を吐き出した。
しかしその息は、二度と吸われることはなかった。
金魚のように口をパクパクさせながら、必死に呼吸を求める。
やがてその苦しそうな表情は消え、辰造は二度と覚めることのない眠りについた。