2002/01/26 (土) 07:46:01        [mirai]
主水が屋敷にいた仕置人を残らず斬り伏せ、納屋に籠った辰造を仕留めんと踏み込もうとした時には、既に鉄が辰造の肋骨を砕き折っていた。
辰造の死を確認した鉄は、その腹に刺さった匕首を引き抜くと、そのまま辰造の屋敷を後にした。
具体的に何をしようとしているのかはわからなかった。
が、鉄が最後まで自分を貫こうとしていたことだけは理解できた。
だから主水は何も言わず、敢えて止めることもしなかった。
鉄とは佐渡にいた頃からの顔馴染みであり、この男の事は誰よりもよくわかっていた。
一言で言うなら、人の言う事に耳を貸さず、ひたすらに自分の生き方を貫いてきた男。
その鉄が、自分の人生の終わりを、自分なりのやり方で飾ろうとしているのだ。
誰にも止める権利はない。
翌日、何事もなかったかのように奉行所に出勤した主水が耳にしたのは、一つの訃報だった。
観音長屋に住む島帰りの骨接ぎが、場末の岡場所(お上非公認の女郎屋)で亡くなったのだという。
敵娼(あいかた)を務めた女郎の話によると。
子の刻(午後十一時)前、いつものようにふらりと現れた鉄は、いつものように店に入った。
いつものように着替え、いつものように女郎と遊び、そしていつものように事に及ぼうとしたその時、息絶えていることに気づいたのだという。
そしてその死に様は、それは凄惨なものだったらしい。
手拭でぐるぐる巻きにされた巻かれた左手は、中指と薬指の間あたりから縦に真っ二つに裂けており、右手は何かに焼かれたのか黒焦げになっていたのだという。
その腹は包丁のようなものでえぐられており、さらしを固く巻いて出血を止めていたという。
何故そのような怪我を負い、そして何故そのような状態を隠してまで女郎を抱こうとしていたのか、奉行所の人間は皆一様に首を傾げていた。
「お前ェには会わなかったことにしとくぞ。」
誰にも聞こえないような小声でそう呟いた主水は、いつものように奉行所を出て、外回りの務めについた。


中山道沿い。
江戸に上る、或いは江戸から下る旅姿の人間をちらほらと見かける。
「正ちゃん、この辺でいいよ。」
襷(たすき)で長襦袢の袖をまくって大八車を引くおていは、後ろで押す正八にそう言った。
大八車の上には様々な旅の荷物があり、そして巳代松がそれを背もたれにして座っていた。
おていの横に駆け寄る正八。
「心配しないで。松っつぁんは私がきっと治してみせるから。」
不安そうな顔をする正八に対し、おていは明るく笑ってそう応えた。
そして大きく手を振ると、そのまま江戸の方を振り返ることはなかった。
正八は一人、おていと巳代松の姿が見えなくなるまで街道に立ち尽くしていた。
本来なら悲しいはずの別れだったが、正八はむしろ安堵していた。
もう二度と、あの二人が裏稼業の掟に縛られることはない。
これから先、或いは死ぬより辛いことがあるかもしれない。
しかし、二人の命を脅かす直接的な死の危険は、もうないのである。
心から二人の明るい将来を願う正八であった。