2002/08/29 (木) 13:05:34        [mirai]
 誰のものかも解らない指紋にまみれた、バスの窓。
「・・・」
 マルチは、そんな窓に、べたぁっと顔をくっつけて、流れる景色を眺めていた。
 毎度の事である。
 バスが出てしばらくすると、マルチはいつも、靴を脱いで座席の上に膝立ちし、
窓に顔を寄せるのだ。
 そして、バカみたいに呆けた顔で、景色に見入る。
「・・・」
 セリオは慣れっこだ。
 研究所に帰ったら、学校であった事と、バスの窓から見えた事を逐一聞かされる。
 呆けた顔をしているが、あれはあれで集中しているらしい。
 だから、今は話しかけないほうがいいのだ・・・と了解している。
 ホントは・・・いろいろ話したいこともあるけど、マルチは一生懸命なので、あん
まり邪魔はしたくなかった。
 ところが、今日は勝手が違ったらしい―――
「セリオさん」
 マルチは、窓から顔を引き剥がすと(ぺりっ、という変な音がした)、すとんと
座席に腰を落とす。
 彼女は、やけに神妙な顔をすると、靴をはきはきしながら、
「セリオさんは・・・○ックって、何だか知ってますか?」
 と言った。
 ムッ○・・・セリオは、口には出さずに、その名前を2度、反芻した。
 たしか、マルチが好きな子供向け番組のキャラクターだ。
「その質問は、ム○クが、いったいいかなる生き物か・・・ということですか?」
「はい」
 そんなことは、来栖川のデータベースを検索すればすぐに解る。
 解るけれど・・・
(そこまでする必要も・・・)
 良く考えたら、ただの雑談の中に、たわむれに生じた話題だ。
 雨降る道路の水溜り、そこに何故か生まれた水の泡・・・そういうふうなものだ。
 なら、データベースを検索してまで受け答える必要はない。
 セリオがデータベースを検索すると、しっかり記録が残るわけで、しかもテスト
期間中なものだから、何故その事柄を検索したのかを報告しなければいけない。
 後々面倒だ。
 そもそも、あれの正体くらい、調べなくとも解る。
「モップのお化けではないでしょうか」
 セリオの言葉に、マルチは
「おぉー!」
 と、大仰に驚いてみせる。
「やぱりセリオさんも、そう思いますか? 実は私も、かねがねそう思ってたんです
よぉー!」
「あれは、どうみてもモップのお化けでしょうね」
「そうですよねぇ」
 マルチは深く納得して、うんうんと頷いていたが、突然「あっ」と声を上げた。
「どうかしましたか、マルチさん?」
「は、はい! ムッ○はモップのお化けとして―――」
 マルチは、こきゅっと唾を飲む。
「ガ○ャピンは?」
「ガチャ○ン!?」
 マルチは重大な事を忘れていた自分に、たいそう腹を立てた。
 セリオは新たな謎の出現に、雷に打たれたようなショックを受けた。
「・・・」
「・・・」
 二人はしばらく黙り込んだ。
 お互いに、その緑色の生き物の出現が、事態を新たな方向へ導く者だと悟ったか
らだ。
 最初に口を開いたのは、マルチだった・・・
「わ、私は―――」
 セリオは願った。
(マルチさんの出した答えが、私の答えと一緒でありますように!)
 緑の髪の少女なら、あの緑色の生き物のことが、良く解るに違いないという、論理
的思考のもとに、セリオは一心不乱に祈った。
 表情は変えなかった。
「私は―――あれは、イモ虫さんだと思います」
「!?」
 セリオはぞっとした。
 その、ぶよぶよとした虫を、想像したからではない。
 ―――イモ虫さんだと思いますー
 マルチの的確かつ、穿った意見は、まさに緑色のシンパシーによるものだろう。
 そして、その豊かな発想! とても自分には出来そうもない、とセリオは内心
地団太を踏んだ。
(や、やはりマルチさん)
 思わず額の汗を拭う。さすがのセリオも、今回ばかりは動揺を隠せない。
 だが、決して負けてはいない。
 彼女の推論もまた、彼女なりのポリシーに準じたものであるからだ。
「私は、イモ虫とは思いません」
 キッパリと言い放つ。
「えっ!?」
 マルチの表情が引きつる。セリオは構わず続けた。
「私は―――あれを、なまこの一種と考えます」
「なまこ!!」
 叫んだマルチは硬直し、そして一筋の涙を流した。
 なまこ・・・なんと繊細で精密で、そして説得力のある解答だろう。
 そうだ、その通りではないか! あのぶよぶよとした姿態、腕についた醜いイボ
と、
 ずんぐりとした体! なにより、海中を怠惰に浮遊するあの姿は、まさになま
こそのものではないか!
 一部の隙もない、理路整然として、美しく、ピッタリと隙間無く、型に嵌る解答!!
 これぞ、推理と言うものではないか!マルチは感動した。
 この時ばかりは、論理的思考を妨げる自分の心というものが、煩わしく感じた
ほどである。
「さすがですよ・・・さすがなんですよ・・・さすがすぎます」
 マルチは呟き、上を向いた。もうこれ以上、涙がこぼれないように。
「私こそ・・・マルチさんの答えに、AIを打たれました」
 セリオは、マルチとは逆に俯いた。
 マルチの天晴れな解答に、不思議な気恥ずかしさを憶えたからだ。
 ふたりの友情は深まった。