>  2002/10/07 (月) 13:50:09        [mirai]
> 飛脚になろうと思う

飛脚の制度は、鎌倉時代はじまる。
京都・鎌倉間を早馬を用い、七日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚・六波羅飛脚・関東飛脚といった。

江戸時代の飛脚は、元和元年(1615)大阪城定番の諸士が、東海道各宿駅(宿場)の駅長と相談のうえ、その家来を飛脚として毎月三度、東海道を往復させたことにはじまる。
宿駅(しゅくえき)とは、街道筋の旅人が泊まったり、荷物を運ぶ人足や馬などを替えたする中間ポイントで、宿場町として栄えていた。
その後、大阪商人の内にこれにならって飛脚業を営むものもあらわれたが、当初は民間営業は許されていなかったので、名を大阪在藩諸士に借り、武士の格好をして営業していた。

寛文三年(1663)に民間営業が許され、お馴染みの上図のような格好となった。
飛脚には幕府公用の継飛脚、諸大名の大名飛脚、民間の町飛脚があったが、なかでも町飛脚は、のちには公用通信の一部も託され、最も大きな役割を果たした。
三都間の町飛脚では、江戸の定飛脚・京の順番飛脚・大坂の三度飛脚が有名で、どれも定期的な飛脚という意味である。
三度飛脚は近松門左衛門の『冥途の飛脚』などに登場するが、毎月2日・12日・22日の三度出発して江戸・大阪間を往復したので、三度飛脚と呼ばれる。

寛文十一年(1671)になると、金銀の輸送をする金飛脚があらわれ、手形のやりとりがされるようになった。
同業仲間は組合組織になっており、手形の支払いができぬ場合は取り調べのうえ、組合で負担した。使い込みなど不都合があった問屋は家財没収のうえ、主人は死罪となる厳しいものであった。

飛脚は江戸・大阪間を6~8日で運んだ。普通、歩くと2週間ほどかかる。
最短の飛脚の記録として赤穂藩士の江戸・赤穂間を5日間が有名である。

飛脚の制度は明治4年(1871年)郵便制度導入で廃止された。飛脚の多くは人力車の車夫になったという。

参考:2002/10/07(月)13時42分35秒