2002/10/29 (火) 00:08:22        [mirai]
拘置所側も、動揺を抑えるため、仙台送りでない死刑囚も、この時間帯に呼び出し、教悔師ら宗教人や教育
部長、管理部長が面接する。死に対する心構えを説き、精神を安定させるのが狙いだが、呼び出しが、必ずし
も、仙台送りでないことを示す、カムフラ-ジュでもある。それでも死刑囚にとっては、恐怖の時間帯である
ことに変わりはない。

 本番のとき、同じように教悔師の面接だといって呼び出しても、彼らは、不思議に、今日が仙台送りの日だ
と感知する。 呼び出す側の職員の方が、仙台送りだということを知っているので、声が微妙に変わるからら
しい。その声で、彼らの方も覚悟して、周りの房に別れの挨拶をする。

 「お先に参ります」
 「お世話になりました」

 世の中で、これほど返事のしようのない挨拶があるだろうか。田中たちも、こういうのが精いっぱいだ。

 「さようなら」

 この”恐怖の九時”が過ぎると、運動に行く者、面会に行く者、入浴に行く者と、舎房の朝が動き出す。彼
らは、この時、今日一日だけは、確実に生命を長らえたことを実感する。けれども、また明日が彼らを待って
 いる。

   「また、明日があるさ」は彼らには禁句なのだ。