2003/01/03 (金) 23:47:38 ◆ ▼ ◇ [mirai]部落はなぜつくられたか。
「徳川幕府は、武士の支配をいつまでも変わらないものにするため、秀吉が
出した身分令をいっそう推し進めた。これによって武士は、農民、職人、商人
よりもきわだって高い身分とされ、はっきりと上下の差別がつけられました。
農工商のなかでは、年貢を負担する農民を上位とし、その下に職人、商人を
おきました。
また、幕府や藩は、農工商の下に「えた」、「ひにん」身分を固定し、それらの
人々を都市、村はずれや河原や荒れ地など悪い条件のところに住まわせました。
「えた」身分の人は、おもに死牛馬の処理は皮革業、細工などの仕事をさせまし
た。また、「ひにん」とともに警備や犯人の逮捕、処刑など役人の下働きの仕事
もさせました。
このような身分制度は、農工商など庶民が力を合わせて武士の厳しい支配に反抗
しないようにし、また庶民に苦しい生活の中でも自分よりもまだ下の者がいると
思わせて、その不満をそらす役割を果たしたのだと考えられます。
武士の中に、将軍、大名から足軽にいたるまで、細かく身分の違いがあったように
他の身分のなかにも上下の違いが細かく決められました。こうした身分と職業は
原則として親子代々受け継がれ、身分の異なる者との間の平等な交際は、普通は
できませんでした。
家庭の中では、家長を中心とする家族制度が守られ、家族は全て家長である
父や夫の命令にしたがい、兄弟のなかでも家名や財産をつぐ長男が最も大切に
されました。また、女子は男子より一段と低く見られて男尊女卑の習わしが
強くなりました。」
「政府は四民平等をとなえて、士と農工商の身分制度を改め、天皇を中心とする
新しい身分制度をととのえました。
天皇の一族は皇族と呼ばれ、もとの公家と大名は華族、武士は士族、農工商は
平民と呼ばれました。華族や士族には、政府から俸禄が支給され、のち俸禄に
かわって公債などがあたえられました。平民にも名字(姓)を名乗ることを許し
職業、結婚、居住などの自由を認めました。
政府は、1871年(明治4年)、布告を出して「えた」、「ひにん」の身分を
廃止し平民としました。これを「解放令といいます。
しかし、これらの人々は平民になったことによって、新たに兵役、教育などの
義務を負うことになりました。また、皮革加工などの権利を失い、さらに、これ
までの悪い生活条件を改善する政策が積極的に行われなかったこともあって、
生活はいっそう苦しくなりました。こうして職業などでの差別が、根強く残る
ことになりました。
しかし、「解放令」を支えにして、これまで禁じられていた祭礼への参加や
共有地の利用、平民として平等なつきあいなど、差別からの解放を求める動きも
おこりはじめました。」