2001/02/20 (火) 00:19:02        [mirai]
満州事変  
まんしゅうじへん 

日本の中国東北・ 内蒙古への武力侵略戦争。いわゆる十
五年戦争の第1 段階。1931年( 昭和6)9 月18日の柳条湖
事件を発端とし,狭義には33年5 月31日該沽( タンクー)
停戦協定までの期間,広義には37年7 月7 日蘆溝橋事件
による日中戦争全面化までの期間を指す。[原因,準備
]  日露戦争後のポーツマス会議で日本は帝政ロシア
から関東州・ 南満州鉄道などの権益を譲渡させ,中国の
東北( 東三省( 奉天,吉林,黒竜江の3 省) 。満州) 南
部に強固な勢力範囲を設け,二十一ヵ条要求によりこれ
をさらに強化し,満蒙特殊権益と称した。しかし第1 次
世界大戦後,中国で反帝国主義運動が成長し,とくに1928
年末張学良政権が国民政府へ合流したのを契機に,東北
でも国権回復運動が高まり,鉄道問題,商租権問題,在
満朝鮮人問題などをめぐり,日中間に紛争が頻発するよ
うになった。一方,陸軍は第1 次大戦の経験から,将来
の国家総力戦準備として,満州の鉄,石炭などの資源獲
得を緊要とするとともに,最大の仮想敵国であるソ連と
の戦争に備えるために南満州の確保を必須とした。さら
に朝鮮統治の安定,大恐慌下の社会的不安の鎮静や人口
問題の解決などのためにも,満蒙問題の解決が必要であ
ると高唱されるようになった。
 浜口雄幸・ 第2 次若槻礼次郎両民政党内閣の幣原喜重
郎外相は日中の〈共存共栄〉を説くことで懸案の解決を
はかったが,鉄道交渉などは進展せず,これに対して1931
年初め松岡洋右が〈生命線満蒙〉を叫んだのをはじめ,
野党の政友会や右翼は幣原外交の〈軟弱〉を攻撃した。
また関東軍幕僚板垣征四郎大佐,石原莞爾( かんじ) 中
佐らは29年ころから満蒙問題の武力解決=満州領有の計
画に着手した。参謀本部第2 部長建川美次( たてかわよ
しつぐ) 少将ら軍中央首脳層は密かに関東軍幕僚の画策
に支持をあたえ,橋本欣五郎中佐らの桜会急進派は三月
事件のクーデタ計画でこれに呼応した。[発端]  1931
年6 月以降,万宝山事件,中村大尉事件などが発生し,
強硬論が高まった。関東軍幕僚は謀略により武力を発動
する計画を練り上げ,9 月18日夜奉天北東方の柳条湖の
満鉄線上で爆薬を爆発させ,中国軍が満鉄線を爆破した
として,付近の北大営を奇襲攻撃した( 柳条湖事件) 。
本庄繁関東軍司令官は関東軍に出撃を命じ,関東軍は19
日中に満鉄沿線を制圧した。
 政府は19日の閣議で事態不拡大の方針を決め,軍中央
もいちおうこれに従って,関東軍の要請で満州に向かっ
た朝鮮軍に待機を指示した。しかし21日林銑十郎朝鮮軍
司令官が独断で部隊を越境させると,軍中央はその承認
を強く迫り,22日閣議の経費支出承認と奉勅命令下達に
より,越境が追認された。この間,政府は21日の閣議で
満州での事件を〈事変〉とみなす決定を行い,24日,日
本軍の行動を自衛のためとし事態不拡大をうたった声明
を発表した。[展開]  柳条湖事件当時北平( 現,北
京) にあった張学良は,1931年9 月21日事件を国際連盟
に提訴し,27日錦州に仮政府をおいた。これに対し関東
軍は10月8 日錦州を空爆し,内外に大きな衝撃をあたえ
た。国際連盟理事会は13日アメリカをオブザーバーとし
て招請することを可決( 反対は日本のみ) ,24日には日
本軍に11月16日までに撤退を求める決議案がやはり13対1
の票決となった( 法的には不成立) 。一方,桜会急進派
の幕僚将校らが軍首脳層の使嗾( しそう) のもとにすす
めたクーデタ計画は不発に終わったが( 十月事件) ,錦
州爆撃とともに若槻内閣に大きな打撃をあたえ,不拡大
方針を屈折させた。