2001/02/20 (火) 00:19:23        [mirai]
 関東軍は張学良から離反した張海鵬軍をチチハルに進
撃させ,これを迎撃した馬占山軍が嫩江( のんこう) の
鉄橋を焼き払うと,嫩江・ チチハル作戦を遂行し,11月19
日チチハルを占領した。さらに奉天特務機関長土肥原賢
二大佐の謀略により天津で日中衝突事件を引き起こし(
天津事件) ,11月末遼西作戦を開始,国際連盟,アメリ
カの対日空気が悪化したため,いったん中止したが,12
月末攻撃を再開し,32年1 月3 日錦州を占領した。また
関東軍は1 月末ハルビンに進撃し,2 月5 日これを占領
した。こうして関東軍は柳条湖事件以来約4 ヵ月半で,
東三省のおもな都市・ 鉄道沿線を軍事占領下においた。
この間,若槻内閣は閣内不統一に陥り,1931年12月11日
総辞職し,13日犬養毅政友会内閣が成立した。犬養首相
は萱野長知を密かに中国へ派遣し事変収拾をはかったが
成功せず,結局,軍部に同調して〈満州国〉樹立に向か
った。
 一方,国民に対しては柳条湖事件の真相は太平洋戦争
敗戦後まで秘匿され,軍部の発表をうのみにした新聞,
ラジオなどマスコミのセンセーショナルな報道や,軍部
が在郷軍人会の組織を動員して全国に展開した国防思想
普及運動などによって,反中国・ 反連盟・ 反欧米の排外
主義が急激に形成され,日本軍への慰問,国防献金,集
会などによる〈国論喚起〉,従軍志願などが続出し,不
拡大方針を掘り崩す役割を演じた。合法無産政党の社会
民衆党は事変を支持し,全国労農大衆党は反戦演説会を
わずかに試みたにとどまり,非合法の日本共産党の反戦
闘争も散発的なものに終わった。またジャーナリズムで
は石橋湛山の率いる《東洋経済新報》が満蒙放棄論を主
張したが,大勢に抗することはできなかった。[〈満州
国〉樹立]  関東軍は,軍中央の反対で当初企図して
いた満州領有は断念したものの,親日政権樹立,ついで
独立国樹立をめざして着々と工作をすすめ,1931年11月
には清朝廃帝の愛新覚羅溥儀( ふぎ) を天津の日本租界
から満州へ脱出させた。また日本はイギリスなどの対日
宥和( ゆうわ) 政策を利用し,国際連盟で現地への調査
委員会派遣を提案,12月これが可決され,イギリスのリ
ットン V. A. G. R. Lytton(1876‐1947) を長とする調
査委員会が派遣されることとなった。
 1932年1 月スティムソン・ アメリカ国務長官は日本の
満州での行動不承認を声明したが,関東軍はまたしても
謀略により上海事変を起こさせ,そのすきに3 月1 日溥
儀を執政とする〈満州国〉を樹立し,首都を新京( 長春
を改称) においた。五・ 一五事件により犬養内閣が倒さ
れたのち,斎藤実内閣の内田康哉外相は〈焦土外交〉を
唱えて〈満州国〉承認を推進した。8 月武藤信義大将が
関東軍司令官・ 関東長官・ 駐満大使となり,9 月15日国
務総理苫孝胥( ていこうしよ) とのあいだで日満議定書
に調印,一連の秘密協定とともに〈満州国〉を日本の実
質的な支配下においた。承認の当日から翌日にかけて撫
順炭鉱付近での日本軍による中国一般住民の大量無差別
虐殺事件( 平頂山事件,犠牲者3000人といわれる) は,
〈満州国〉が唱えた〈五族協和〉( 五族とは日,鮮,満,
漢,蒙の各民族を指す) ,〈王道楽土〉の欺瞞を如実に
示した。[連盟脱退]  1932年10月2 日公表されたリ
ットン報告書は日本の主張を否認し,東三省の列強によ
る共同管理を提案した。日本はこれに強く反発し,33年2
月24日国際連盟総会でリットン報告書が42対1(反対日本
のみ,シャムが棄権) で可決されると,日本代表松岡洋
右は総会を退場した。3 月27日日本は連盟に脱退を通告
し,ワシントン体制から離脱する方向へ向かった。
 この間,1933年1 月関東軍は〈満州国〉の領域と主張
する内蒙古の熱河省に侵攻し,4 月以降には万里長城を
越えて関内の河北省にも攻め込んだ( 熱河作戦) 。5 月31
日該沽停戦協定が調印され,柳条湖事件以来の軍事的膨
張はいちおう終結し,関東軍は長城線へ撤収した。34年3
月〈満州国〉は帝政を施行し,溥儀は皇帝となった。軍
部は在満機構改革を強引にすすめ,12月対満事務局の発
足により,満州を一元的支配下に収めた。関東軍は〈匪
賊〉の討伐を重ねたが,日本の経済開発による収奪,と
くに満州移民にともなう土地略奪は不断の抗日運動を引
き起こした。日本は抗日運動の根絶と資源・ 市場の獲得
をめざし,35年から華北工作を推進したが,これは中国
の抗日救国運動の成長を促し,37年7 月蘆溝橋事件を発
端とする日中戦争の全面化に至った。