> 投稿者:陳宮 2003/06/28 (土) 22:02:20 ◆ ▼ ◇ [mirai]> ではまず史実に基づいて今川に相当するチョンの油断を誘うためにこちらはどの板を鳴海砦をとして見殺しにするよ?
桶狭間における信長の攻撃方法 :分断しての各個撃破戦法
この桶狭間の戦い後の論功行賞において、勲功第一とされたのが、義元本隊の場所を知らせた簗田政綱であった。
ただ場所を知らせただけで勲功第一とはいくら情報が大事といってもおかしいと思う。
思うに簗田の任務は信長の仕掛けた情報戦の実施面での責任者という役割だったと思われるから、
その今川軍に対して行われた情報戦の成功が評価されたのだろう。
前線の今川軍に信長本隊の動きを悟られないようにし、
前線の情報が義元本隊に届くのを妨害し、義元本隊の位置を探る。
そうした上で今川軍の前線と本隊の連絡を一時的に分断し、そのわずかな時を見計らって義元本隊に突撃し各個撃破を図る。
これらを可能としたのは簗田の功績であったと思う。
だがそれでも奇襲は不可能であったと考える。
いくら勝ち戦だと思って慢心していたとはいえ、義元は斥候を放って周囲の情報を収集したであろうし、
窪地に陣を張るという愚かな真似はしようはずもない。
一説におけはざま山という小高い丘に陣を張ったとあるがそれが正しいと思う。
よって奇襲は不可能であるという結論に行きつく。
信長本隊の動きは義元本隊に近づくにつれ斥候によって探知されていたであろう。
だがこの情報は簗田の部隊によって妨害されるか足止めされるかしたのではなかろうか。
そして信長来襲の知らせを受けたとき、態勢を整える前に突撃を受けたか、態勢を整えることが出来、
地の利を生かし迎撃したが、防衛意識から士気が異常に高まっていた信長軍の勢いに抗し切れなかったかのどちらかではなかろうか。
信長軍は敵の首をとることを禁止し、ひたすら義元の首ただ一つだけをねらっていたのだから。
このような考察から、桶狭間の戦いにおける信長の戦術は、
情報において優位にたち、大軍の盲点をついた分断しての各個撃破戦法であったと考える。
適当に考えた末に奇襲で負けた奴って滅茶苦茶多いんだよな
参考:2003/06/28(土)21時58分30秒