> > 思考を標準語ですることは言語論の見地からも不可能であることは > > 明らかであるので、出力の形態を標準語に変化させるべきという主張 > > になるわけだが文化とは本来雑多でクレオールな物であるということに > > 異論を唱える者はいないだろう、また言語とは文化の根幹である > > ということに異論を唱える者もいないと思う。ということはある地方の者が > > 別の地方にいったときそこには一種の文化の混ざった状態が発現する訳であり > > またそれこそが文化である。さてここに貴殿の主張を混ぜたとき貴殿の主張では > > 文化のクレオールさ、渾然一体としたその本質は失われるのではなかろうか > > だとすればそれは明らかな誤りとして認識されえないだろうか? > ズーズー弁の女は萌えだよ あんたは岩手の虎だべす 参考:2003/06/29(日)21時06分10秒