2003/10/20 (月) 02:24:33 ◆ ▼ ◇ [mirai]佐助という男が壮年のころ、深川へ儒教の講義をしに行った。黄昏どきになった
が家までの道のりは遠かったので、帰路の途中、仲町の茶店=遊郭に立ち寄った。
そこで女をとって二階の部屋で遊んでいたが、夜更けになって下の階から念仏を
唱える声が聞こえてきて、やがて梯子を昇る音が聞こえたかと思うと、佐助が寝
る部屋の障子ごしに、廊下を誰かが通る物音がする。佐助は不審に思って、障子
をすこし開けて隙間から覗けば、髪を振り乱して両手を血に染めた女が廊下を行
ったり来たりしている。恐ろしくなったので、布団へ戻って夜着を頭からかぶり、
ガタガタ震えていた。そのうち障子の外が静かになったので、横に侍って寝てい
た妓女に、さきほどの恐ろしい体験を話したところ、妓女は言った。「やはりそ
うでしたか。この家には昔、おおぜいの私娼をかかえた親方がいたのですが、そ
のうちひとりが病気の身で、一日客をとれば十日臥せるというしまつ。親方はそ
れを理由に、しばしばその妓女に折檻を加えていました。しかし、親方の妻は慈
悲の心があって、たびたび『この子は病気の身なのですからどうかやめておくん
なさい』と窘めて、旦那の折檻を思い止まらせておりました。あるとき親方はひ
どく怒りちらしていて、病身の妓女を殴ったり蹴ったりしはじめました。妻は見
るに見かねてそれを止めようと割って入ったところ、親方は脇差を抜いて妻に切
りかかってきました。日ごろから奥さんに庇ってもらっていた妓女はそれを止め
ようと、必死に素手で刀を受けたところ、指が残らず切り落とされてしまったそ
うです。そして、妓女はその傷がもとで亡くなってしまいました。その後、彼女
の亡霊があのとおり出るようになり、ために客足が途絶えるようになったという
わけなのです。」翌日、夜明けに、佐助は暇乞いをして家へ帰った。後日、同じ
ところを通りかかったが、かの茶店は跡形もなくなっていたという。