>  投稿者:ピンサロ君 2001/04/20 (金) 02:22:49        [mirai]
> > 民俗学的には対象外でつか(´Д`)そうなんだ
> > 音楽的に言うと、いや音に関してなんだが、まだまだ面白い部分があるんだがな
> > チベットラマ教の僧侶の読経を自分の曲に使って、それが自分の神秘主義的欲望を
> > 満たすことに繋がる、ような音楽はあまり聴かなくなったな、ポップスは除くが
> おらしょなんかの転訛は民俗学や言語学的な意義はもつがそのような
> 視点を抜きにしたら別に大したものじゃないと思うのだが
> 僧侶の読経と違ってキリシタンは意味なんかわからずに覚えるものだし、
> そもそも詠めたのだって昔から部落の一部の人間だけだし

そうでしょうか(´Д`)
漏なたが書いたように転訛は興味深いでつ
おらしょがどちらかと言うとお祈りそのものにではなく転訛に注目されていることも、
皆川達夫「対談と随想 オラショ紀行」(日本基督教団出版局)などを読むと
明らかでつな
しかし漏なた、僧侶の読経は意味を知りつつ詠むが、きりしたんの祈りは意味など
分からずに詠む、と書いているがこれは誤解があるのかもしれないでつ
漏れが思うに、両者とも分かっていないと思う。わらい
もちろん分かっていながら詠むヤシだっているわけだが、職業的であれ・在家的で
あれ、「現在」、祈りの意味を知りつつ詠んでいるヤシは、両者を比べると同程度なの
ではないかと思う
「そもそも読めたのだって昔から部落の一部の人間だけ」と漏なたは書いたが、
一部の人間だからこそ素晴らしいのではないでつか?
ヨーロッパの人間からみると(=キリスト教世界のヤシからみると)東の外れの小島の国の、
その国にある小島の人間が、ヨーロッパのヤシですら詠わない自分たちの宗教の歌を歌って
いたんだよな
あまりにローカルだが、激しくグローバルでつよね

参考:2001/04/20(金)01時59分59秒