>  投稿者:ピンサロ君 2001/04/20 (金) 03:10:22        [mirai]
> > そうでしょうか(´Д`)
> > 漏なたが書いたように転訛は興味深いでつ
> > おらしょがどちらかと言うとお祈りそのものにではなく転訛に注目されていることも、
> > 皆川達夫「対談と随想 オラショ紀行」(日本基督教団出版局)などを読むと
> > 明らかでつな
> > しかし漏なた、僧侶の読経は意味を知りつつ詠むが、きりしたんの祈りは意味など
> > 分からずに詠む、と書いているがこれは誤解があるのかもしれないでつ
> > 漏れが思うに、両者とも分かっていないと思う。わらい
> > もちろん分かっていながら詠むヤシだっているわけだが、職業的であれ・在家的で
> > あれ、「現在」、祈りの意味を知りつつ詠んでいるヤシは、両者を比べると同程度なの
> > ではないかと思う
> > 「そもそも読めたのだって昔から部落の一部の人間だけ」と漏なたは書いたが、
> > 一部の人間だからこそ素晴らしいのではないでつか?
> > ヨーロッパの人間からみると(=キリスト教世界のヤシからみると)東の外れの小島の国の、
> > その国にある小島の人間が、ヨーロッパのヤシですら詠わない自分たちの宗教の歌を歌って
> > いたんだよな
> > あまりにローカルだが、激しくグローバルでつよね
> 本来読経と祈りは違うと思うのだがまあそれは置いておいて、キリスト教的視点で見れば
> 日本は決して東の外れの小島ではなくキリスト教の秘密を握る神秘の国として捉えられていたわけなんだが、
> とりあえずキリスト教的には決して感慨にふけるようなものではなく異端として弾劾されるべき
> 対象であるに過ぎないわけでして、詠めた一部の人間にしても平家物語や語り部等の日本的風土の影響が
> 色濃いと思うわけでして、つまり注視すべきはローカルに発展したキリスト教と日本人的性質の相関性だと思うのですよ

僧侶の読経ときりしたんの祈りと分けたのは、後に続く分の中でいちいち「僧侶の」
や「きりしたんの」と書くとうるさくなるかもわからんねと思い、漏れが勝手に
書き分けただけでつ。漏なたは分かっていると思うが。漏れの怠慢でもある。すまん。
「すまん」で済むことではないのかもわからん。つまり漏れは「読経」→「東洋」、
「祈り」→「西洋」というくらいの軽い気持ちで書いていたんだが、勘のいい方は
もう分かっていらっしゃるでしょう、「かくれきりしたん」は日本人なのだね。
漏れの無意識の表象行為がかくれきりしたんを疎外しようとしているのかも
わからん。しかし、この話は当面の話題とあまり関係がないように思われるので
ここらで終わります。

漏れが「東の外れの小島」と書いたのは確かに自虐的な意味をこめてだが、漏なた
がいう「キリスト教の秘密を握る神秘の国として捉えられてきた」ことに対する自虐
でもある。つまりキリスト教世界のヤシらの東洋趣味を表象していた(ソイシらが日本に
来たことがあろうとなかろうと、だ)わけだが、一方で「異端として弾劾される」
ような存在でもあったのでつね
「感慨にふけるようなものではな」いとのことだが、漏れはヨーロッパの宣教師が
遙々日本まで来て辺境の一部落のヤシらに「おお輝ける聖母」を教え、現在でも
御詠歌のような姿に形を変えたし決して多くのヤシが歌うことはない歌であるが、
現在のスペインでは歌われていない歌を、かくれきりしたんの末裔が詠っているこ
とに単純に感動しているだけなんでつ。わらい  単細胞なもので

漏れは民俗学のことをよく知らないので勘違いしている部分が多いとは思うが、
「つまり注視すべきはローカルに発展したキリスト教と日本人的性質の相関性」と
言ってしまって閉じこめてしまうのではなく、もう少し開かれたかたちであって
も良いのではないかと思うんだが。もう少し開かれたかたちというのは、ローカルに
発展したキリスト教と日本人的性質の相関性に、時間や空間を越えて語り続けられる
音楽の不思議さを加えても良いのではないか?ということなんだが。

参考:2001/04/20(金)02時44分33秒