前人格的な「もの」(他者)に「見られている」という反省的意識において「私」 なる主観は成り立つのであり、それがあってはじめて「私」は外部の「もの」を 見ることができる。つまり、私が何かを見ることには、つねに何ものかから見られている という前提がもともと含まれているわけだ。 これをもっとも厳密に説明したのが、ラカンの鏡像段階論。