>  2004/01/15 (木) 16:15:33        [mirai]
> > 日本が隣にあるからだと思うよ
> 昔は文化の中継地点だったりしてたから
> 「俺があいつを育てた」みたいな勘定があるんだろうな
> それが戦争時に併合されたり、経済とかの国力でとんでもない差をつけられたりで
> 面白くないんだろうな(;´Д`)

http://www.ywad.com/books/541.html
五世紀はじめのころの韓半島では、高句麗と百済の間で激しい戦闘が引き起こ
されていた。その時期に、戦渦の苦しみから逃れようと多数の百済人が、大和
へ
集団移住して定着していった。それが四〇三年から四〇五年の間のことで、
「弓月の君が百済から一二〇県の人民を率いてやって来た」などの『日本書紀』
の
記事がその集団移住を証拠だてている。
韓
民族は北九州をはじめ、倭の各地に住んでいたが、大和倭(大和の倭)の建設は
集団移住をとげた百済人の手によって、このときからはじまった。こうして、
大和倭は百済の植民地として栄えていった。
五世紀の大和地域における百済人と日本原住民との関係は、大航海時代以降の
イギリス人とオーストラリアのアボリジニ、あるいはイギリス人と北アメリカ
のインディアンと同じものだといってよかった。日本の原住民には満足な衣服
もなければ文字もなく、まったくの原始状態にあった。そのような野蛮な未開地
へ、
高度かつ大規模な先進文化をもった百済人が集団移住をはじめたのである。それ
が五世紀のはじめころ、そこから本格的な日本列島の開拓がはじまったのであ
る。その開拓は、宗教・技術・政治などすべての分野での開拓であり、いくつか
の分野に限定された開拓ではなかった。

この説が本当に韓国で一般的なのかどうかはワカランが、まあ大体はそういう
認識なんだろうなぁ(;´Д`)

参考:2004/01/15(木)16時09分33秒