2004/05/30 (日) 02:31:10        [mirai]
「もう、いいんです」
 祐巳は、そのまま駆けだした。
「あっ、祐巳さま!?」
 瞳子ちゃんの声が、背後から追いかけてきた。なのに、祥子さまの声は届い
てこなかった。
 雨が顔を濡らす。髪を濡らす。制服を濡らして、どんどん重くなる。
 自分の走る姿は何て格好悪いのだろう、と思いながら祐巳は走った。ドラマ
なんかで見る傷ついたヒロインは、もっとさっそうと走っていた。
 なのに自分ときたら、どうだ。鞄は股にパタンパタンとあたるし、折り畳み
傘はひっくり返ってまるでコントだった。
 格好悪いままがむしゃらに図書館の脇を駆け抜け、マリア様のお庭の前を
すっ飛ばし、銀杏並木をどんどん進んで校門が見えてきたところで、祐巳の足
はやっと止まった。
 十メートルほど先にいる大学生の集団の中に、知っている人がいたから。
 華やかな色の傘の中に、男物の黒い傘が混じっている。
 遠くからでも後ろ姿でも、わかる。何度も祐巳を助けてくれた、頼もしい人
の背中だった。
「……聖さま」
 弱い声で呼びかけたにも関わらず、黒い傘はゆっくりと振り返った。一緒い
たピンクの花柄とか黄色の水玉とか紺のチェックとかの傘は、黒傘が立ちまっ
たことさえ気づかずに校門を抜けて歩いていく。
「祐巳ちゃん、どうしたの!?」
 聖さまは叫んだ。傘があるのに濡れ鼠となった後輩を見れば、たいていの人
は驚くものである。
「聖さまぁっ」
 祐巳は傘も鞄もその場に捨てて、真っ直ぐ聖さまの胸に飛び込んだ。
「いったいどうしたの」
 ただ泣き続ける祐巳に、聖さまはオロオロするばかりだったけれど、どうし
て泣いているのかを冷静に説明できそうになかった。でも、この前聖さまが
「ぶちまけていい」って言ってくれたから。もう一人で抱えきれないほど膨ら
んでしまった切ない思いを、誰かに聞いて欲しかったから。
「ああよしよし」
 聖さまは、しゃくり上げる祐巳の背中を、やさしく撫でてくれた。こうして
いると、何も考えずにいられそうだった。大きな存在に身を委ねて、疲れた身
体を休めたかった。
 やがて手の動きが止まって、聖さまがつぶやいた。
「……祥子」
 そのことで、祥子さまがそこに現れたことな祐巳は知った。でも、聖さまか
らは離れなかった。力を入れて、しがみついた。祥子さまには返さないでっ
て、無言で聖さまに訴えかけた。
 向かい合っている形の祥子さまと聖さまは、どちらも何も言わなかったか
ら、祐巳には周囲の状況が見えなかった。ただ祥子さまの足音が、ゆっくりこ
ちらに近づいてくるのがわかるだけだ。
「祐巳」
 静かに、名前を呼ばれた。けれど、祐巳は答えなかった。聖さまの腕の中
で、いやいやと首を振り、顔を上げもしなかった。
 やがて、祥子さまのため息が聞こえた。
「お世話おかけします」
 それは、聖さまに向かって言った言葉だったのだろう。祐巳の頭のすぐ上に
あるもう一つの頭が、小さくうなずく。
「祐巳ちゃん」
 遠ざかる足音にかぶって、聖さまが囁いた。
「いいの? 祥子、行っちゃうよ」
「いいんです」
 祐巳は静かに顔を上げた。――と、聖さまの腕には、さしている黒い傘とは
別の傘の柄が引っかかっていた。
「これ」
「祥子が拾って私に渡した」
 それは祐巳の紅い折り畳み傘だった。よく見れば、祐巳の鞄もそこにある。
「……祥子さま」
 祐巳は、閉じられた紅い傘をギュッと握りしめた。
 これは私だ、と思った。地面に落ちて泥水で汚れた惨めな傘。祥子さまはそ
れを拾って、聖さまに託した。
 もう、いらないんだ、ってそう思ったら無性に悲しくなって、祐巳は黒い傘
を飛び出していた。
 校門を出た場所に、祥子さまはいた。迎えにきたと思しき黒塗りの車の後部
座席に瞳子ちゃんと一緒に収まって、窓から美しい横顔をのぞかせている。
「お姉さまっ!!」
 走り去る車に叫んでみたが、届かなかった。祥子さまは一度もこちらを見な
かったし、車はスピードをどんどん上げていく。
 きっと雨のせいだ。
 強くなってきた雨が、祐巳の声も姿も、覆い隠してしまったのだ。
 やがて祥子さまを乗せた車も、雨ににじんで見えなくなった。
 どしゃ降りの雨が、二人をどんどん引き離していく。
「お姉さま……」
 声を出しても、雨音に打ち消されてしまう。追いかけても、雨に遮られて姿
が見えない。
 雨が降る。
 雨が降る。
 こんなはずじゃなかったのに。
 祐巳は雨と一緒に泣き続けた。
 傘はあるのに、それを抱きしめ、濡れながら届くことのないお姉さまの名前
を呼んだ。