> 2004/05/30 (日) 03:20:50 ◆ ▼ ◇ [mirai]> 「もう、いいんです」
> 祐巳は、そのまま駆けだした。
> 「あっ、祐巳さま!?」
> 瞳子ちゃんの声が、背後から追いかけてきた。なのに、祥子さまの声は届い
> てこなかった。
> 雨が顔を濡らす。髪を濡らす。制服を濡らして、どんどん重くなる。
> 自分の走る姿は何て格好悪いのだろう、と思いながら祐巳は走った。ドラマ
> なんかで見る傷ついたヒロインは、もっとさっそうと走っていた。
> なのに自分ときたら、どうだ。鞄は股にパタンパタンとあたるし、折り畳み
> 傘はひっくり返ってまるでコントだった。
> 格好悪いままがむしゃらに図書館の脇を駆け抜け、マリア様のお庭の前を
> すっ飛ばし、銀杏並木をどんどん進んで校門が見えてきたところで、祐巳の足
> はやっと止まった。
> 十メートルほど先にいる大学生の集団の中に、知っている人がいたから。
> 華やかな色の傘の中に、男物の黒い傘が混じっている。
> 遠くからでも後ろ姿でも、わかる。何度も祐巳を助けてくれた、頼もしい人
> の背中だった。
> 「……聖さま」
> 弱い声で呼びかけたにも関わらず、黒い傘はゆっくりと振り返った。一緒い
> たピンクの花柄とか黄色の水玉とか紺のチェックとかの傘は、黒傘が立ちまっ
> たことさえ気づかずに校門を抜けて歩いていく。
> 「祐巳ちゃん、どうしたの!?」
> 聖さまは叫んだ。傘があるのに濡れ鼠となった後輩を見れば、たいていの人
> は驚くものである。
> 「聖さまぁっ」
> 祐巳は傘も鞄もその場に捨てて、真っ直ぐ聖さまの胸に飛び込んだ。
> 「いったいどうしたの」
> ただ泣き続ける祐巳に、聖さまはオロオロするばかりだったけれど、どうし
> て泣いているのかを冷静に説明できそうになかった。でも、この前聖さまが
> 「ぶちまけていい」って言ってくれたから。もう一人で抱えきれないほど膨ら
> んでしまった切ない思いを、誰かに聞いて欲しかったから。
> 「ああよしよし」
> 聖さまは、しゃくり上げる祐巳の背中を、やさしく撫でてくれた。こうして
> いると、何も考えずにいられそうだった。大きな存在に身を委ねて、疲れた身
> 体を休めたかった。
> やがて手の動きが止まって、聖さまがつぶやいた。
> 「……祥子」
> そのことで、祥子さまがそこに現れたことな祐巳は知った。でも、聖さまか
> らは離れなかった。力を入れて、しがみついた。祥子さまには返さないでっ
> て、無言で聖さまに訴えかけた。
> 向かい合っている形の祥子さまと聖さまは、どちらも何も言わなかったか
> ら、祐巳には周囲の状況が見えなかった。ただ祥子さまの足音が、ゆっくりこ
> ちらに近づいてくるのがわかるだけだ。
> 「祐巳」
> 静かに、名前を呼ばれた。けれど、祐巳は答えなかった。聖さまの腕の中
> で、いやいやと首を振り、顔を上げもしなかった。
> やがて、祥子さまのため息が聞こえた。
> 「お世話おかけします」
> それは、聖さまに向かって言った言葉だったのだろう。祐巳の頭のすぐ上に
> あるもう一つの頭が、小さくうなずく。
> 「祐巳ちゃん」
> 遠ざかる足音にかぶって、聖さまが囁いた。
> 「いいの? 祥子、行っちゃうよ」
> 「いいんです」
> 祐巳は静かに顔を上げた。――と、聖さまの腕には、さしている黒い傘とは
> 別の傘の柄が引っかかっていた。
> 「これ」
> 「祥子が拾って私に渡した」
> それは祐巳の紅い折り畳み傘だった。よく見れば、祐巳の鞄もそこにある。
> 「……祥子さま」
> 祐巳は、閉じられた紅い傘をギュッと握りしめた。
> これは私だ、と思った。地面に落ちて泥水で汚れた惨めな傘。祥子さまはそ
> れを拾って、聖さまに託した。
> もう、いらないんだ、ってそう思ったら無性に悲しくなって、祐巳は黒い傘
> を飛び出していた。
> 校門を出た場所に、祥子さまはいた。迎えにきたと思しき黒塗りの車の後部
> 座席に瞳子ちゃんと一緒に収まって、窓から美しい横顔をのぞかせている。
> 「お姉さまっ!!」
> 走り去る車に叫んでみたが、届かなかった。祥子さまは一度もこちらを見な
> かったし、車はスピードをどんどん上げていく。
> きっと雨のせいだ。
> 強くなってきた雨が、祐巳の声も姿も、覆い隠してしまったのだ。
> やがて祥子さまを乗せた車も、雨ににじんで見えなくなった。
> どしゃ降りの雨が、二人をどんどん引き離していく。
> 「お姉さま……」
> 声を出しても、雨音に打ち消されてしまう。追いかけても、雨に遮られて姿
> が見えない。
> 雨が降る。
> 雨が降る。
> こんなはずじゃなかったのに。
> 祐巳は雨と一緒に泣き続けた。
> 傘はあるのに、それを抱きしめ、濡れながら届くことのないお姉さまの名前
> を呼んだ。
あぁ。
参考:2004/05/30(日)02時31分10秒