2004/06/12 (土) 05:16:56 ◆ ▼ ◇ [mirai]「チャイルドブランド」にとって将棋は、ただのゲームであって、最新定跡の研究
と読む力の差だけによって結果が決まるものです。全てを計算しつくすことはコン
ピュータにも人間にもできないので確率的な要素は入りますが、そこに物語がから
む余地は一切ない。彼らはそういう面白みの無い将棋観を批判されてきましたが、
これは将棋の外で進行していたことの反映で、今30代前半から20代後半の世代はみ
んな醒めている。一切の選択肢を奪われて「醒めている」というあり方を強制され
ているように思えます。だから、伊達や酔狂でなくて、そういうあり方しか彼らに
は無かったのだと思います。
彼らにとっても羽生名人は特別の存在ですが、それは単に「勝率が特別高い人」と
いう意味でしかない。終盤の「羽生マジック」に惑わされた人は、単に「こういう
局面で羽生はいい手を出す確率が高い。よってここで時間を使うことは仕方ない」
というような、冷静な判断のもとで冷静に惑わされていただけで、それをデータと
して蓄積して多少、状況が変化すれば、「羽生マジック」なんていう仮想概念は消
滅してしまうわけです。
それで、私は言いたいのですが、どちらの世代が将棋に対して真摯であったと言う
べきなのか?結局、「チャイルドブランド」以前の人は、「将棋」より「名人」を
信頼したのです。「チャイルドブランド」は「名人」より「将棋」を信頼した。つ
まり、「将棋というゲームはそんなに圧倒的な差がつくようにはできてない。そん
なちゃちなものではない」という意味で、彼らは、目の前に立ちはだかる羽生の圧
倒的な強さより「将棋の神様」を信頼したのではないか。
「物語」っていうのはバッファーです。負けた時に、「ああ俺は人間としてまだま
だ未熟だ」なんていうのは甘えではないか。負けた奴は単に将棋が弱いだけ。「チ
ャイルドブランド」はその事実に直面する勇気を持っていた。「将棋の神様」を信
頼するということは、負けた自分が弱くてそれ以外の何者でもないということを受
けいれるということです。