2025/09/27 (土) 13:24:21        [misao]
バーガーキングが送り出した期間限定商品ライス オン ザ ビーフを目にし
たとき、私は直感した。これはただのライスバーガーではない。デブにとっ
ての「存在論的な問い」を突きつけてくる挑戦状だ。なぜなら、ここにはパ
ンではなく米で肉を迎えるという単純すぎる構造の裏に、胃袋を直撃する圧
倒的な必然性があるからだ。
一般的にハンバーガーとは、野菜やソースをバランスよく重ね、彩りと味わ
いのハーモニーを楽しむものだとされている。しかし、デブからすればそれ
は枝葉にすぎない。極限まで突き詰めると本質はただ一つ、肉が美味いかだ。
ライス オン ザ ビーフは、その一点において異常なまでに純化された形態
をしている。肉と米、それだけで十分だと提言しているのだ。

ここで思い出したいのは、日本人にとっての「おにぎり」である。具材はシ
ンプルであるほど正統派とされる。鮭、おかか、梅干し。潔さこそ王道だ。
ライス オン ザ ビーフも同じである。野菜や調味料は潔くそぎ落とされ、
残されたのは米の甘みと直火焼きパティの旨み。つまりこれは「おにぎりの
哲学をまとったバーガー」なのだ。日本の米の潔さとアメリカンビーフの力
強さがこの国でひとつになったとき、デブの胃袋に突き刺さる本当の意味で
の米国が誕生するのかもしれない。

そして、これはただの米ではない。八代目儀兵衛との共同開発による専用ブ
レンド米。白米の甘みと、玄米「金のいぶき」の力強い粒立ちを合わせた特
製ライスパティである。デブにとって玄米は、健康アピールの小道具ではな
い。白米がもたらす柔らかな幸福感を背後から支え、噛むほどに「まだいけ
る」と食欲を後押しする持久力の源泉だ。つまりこれは、甘美な白米と屈強
な玄米がタッグを組んだ二段構えの満腹兵器であり、正々堂々と胃袋に挑み
かかってくるライスパティなのである。

だが、俺がこの商品に胸を震わせるのは、そうした栄養学的な配慮ではない。
もっと直球の問いかけがそこにあるからだ。それは俺たちの肉をちゃんと味
わえるか?という挑発である。パンやレタスやトマトにごまかされることな
く、ただ肉と米だけをぶつけられたとき、人はその旨さを純粋に受け止めら
れるのか。これはバーガーキングから俺達への真剣勝負であり、ある種の哲
学的テストだ。

もちろん世間はこれをネタとして消費するだろう。SNSでは称賛から嘲笑ま
で、さまざまな声が飛び交う未来が見える。だが、我々デブは知っている。
ネタにされているその裏で、我々は本質に触れてしまっていることを。笑い
ながら食べたその瞬間、米と肉が胃袋の底で手を取り合い、満腹感という真
理へと導くのだ。これは揶揄ではなく、祝祭である。
ネタ扱いされるからこそ、堂々と食べられる。本気と冗談のあいだにあるグ
レーゾーンこそ、デブの楽園なのだ。「いやこれ笑えるやん」と言いつつ胃
袋に収めれば、罪悪感は霧散し、残るのは圧倒的な満足感だけである。

では、「ライス オン ザ ビーフ」の未来はどうか。バーガーキングといえ
ば、しばしば悪ふざけのようにパティを重ねまくり、圧倒的なボリュームで
話題をさらうイメージがある。だが今回のこれは違う。たった1枚で正面か
ら勝負している。その潔さにこそ、逆にデブ的なリスペクトを覚える。

デブにとって過剰は祝福だ。だが、ときに過剰を削ぎ落とした先に、本質的
な満腹が立ち現れることがある。1枚で挑んでくるからこそ、米と肉の純粋
な衝突が鮮やかに浮かび上がるのだ。合理性ではなく、むしろ誠実さ。そこ
に救済を見るのが、真のデブである。

要するに、この商品はネタにしておくにはもったいない。いや、デブにとっ
てはネタに見えるからこそ安心して本気で食える。期間限定という枷もまた、
我々を駆り立てる。二週間しかない。それは今すぐ食えという啓示である。

ライス オン ザ ビーフは、ただのライスバーガーではない。デブにとって
は本質に触れる儀式であり、米と肉の直球勝負であり、満腹を祝祭に変える
仮面舞踏会である。世間が笑っているうちに、我々は黙って本質を食べ尽く
す。

これぞ、デブの哲学だ。
https://togetter.com/li/2607737