2023/05/05 (金) 08:34:37        [misao]
完璧な請求書などといったものは存在しない。
完璧な見積もりが存在しないようにね。
ぼくは机に座り、ペンを取ると手紙を書き出した。
ひと文字ひと文字を丁寧に。

*
お元気ですか。ぼくは元気です。
相変わらず経理という仕事をしています。
ところできみがした仕事に金銭を支払いたいんだけど、請求書を送ってもらえるかな。

別に凝ったものじゃなくていい。
金額が合っていて、サインと捺印がしてあればいいんだ。
ついでにマイナンバーの番号も教えてもらえると嬉しいんだけど……それは難しい注文なのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。
*
一通り書き終わると、ぼくは机に置いていたコーヒーをすすった。
悪魔の汗みたいに濃かった。

「やれやれ」口のなかでそうつぶやく。
「どうせ一回の催促じゃこない」

FM放送のラジオからヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れ出した。
ぼくは椅子に深くもたれかかり、目をつむってそれを聴いた。
ねむりに向かって意識が薄れていくのがわかった。

ドアをノックする音がして、はっと目を開けた。視線を向けると、真鍮の錆びたノブがゆっくりと時間をかけて回されていく。
ヤナーチェックの音楽はまだ続いていた。

ドアを開けたのは顔立ちのいい男だった。営業課の男だ。
つかつかと音を立ててぼくに近づいてきた。
手には紙の束を持っていて、そのうちの一枚をぼくの机の上に置いた。

「これ経費で落ちる?」

「これ経費で落ちる」
ぼくは少し考えてから言った。
「難しいと思う」

なぜならそこには「接待費二〇万円」と書かれていたからだ。

「やはり難しいか」と営業は言った。
「そういう予感はしていた」

ぼくはカレンダーに目をやった。
月末の締め日まだあと一日しかなかった。

「ところで」とぼくは営業の顔を見た。
「来月もこうやってぎりぎりに提出するのかな」

営業の目つきが変わった。鋭い目をしていた。
まるで三日間なにも食べていない熊のように。

「わからない」と営業は言う。
「それを決めるのは俺じゃない」
そう言って営業は立ち去っていった。

いつしかヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は聞こえなくなっていた。
経理部のなかは、エアコンが稼働する音と時計の針が動く音しかしなかった。

感覚のすべてがばらばらにされたみたいだった。

「わからない」
無意識に繰り返した。言ってしまってから後悔した。
来月もまた残業するのかと怖くなった。

夏の午後に冷蔵庫へ置かれたきゅうりみたいに、ぼくはじっと座っていた。