2009/06/28 (日) 16:12:13        [qwerty]
特定の対象に向けられた愛ではなく、全ての生きとし生ける者に向けられた慈愛としての愛情。それらを受
け止め、また自らもそれを与えうるものであろうとしたところに、《Air》編が限りなく美しい物語であるとされる理由がある。つまり、晴子はそこにおいて、一人の個人である
と同時に、人類の記憶を担うものとして、観鈴に無限の愛情を注ごうとするのだ。そして、観鈴は逆に、人類の記憶を担うものでありつつも、一人の人間として、晴子の想いを受
け止め、それに応えようとする。この交差する二重の時間性と想いこそが、「幸福」の煌めきを象る。しかしけれども、このような地点は我々にとっては極めて遠いところにある
だろう。我々はやはり日々の暮らしの中で「知識の実」と「生命の実」の相克に悩み、苦しむ。その先にしか幸福がないということがたとえ分かっていたとしても、それは究極的
に宗教的な境涯であり、そこへと逢着するためには1000年もの時間が文字通り求められるのであろうし、それに比して我々の生はあまりにも短い。だからこそ最後の場面で登場す
るのは子供たちなのであり、彼らはこのような歴史の終焉の彼方に位置する。即ち、彼らは全く新たな〈幸福〉の担い手として立ち現れるのだ。けれども、我々はその「過酷な日
々を」引き受けるしかない。だが、もし幸福が1000年先であろうともそのような形で光を放つのであるとすれば、祝福された生命のために、そして受け継がれてきた無限の想いを
少しでも受け止めるために、眼差しを空へと高くあげることは、決して無意味なことではないのかもしれない。そう、私たちは海よりも遠くへゆけるのだから。