>  2009/07/19 (日) 11:48:26        [qwerty]
> > 今日は頭の悪い投稿ばっかりだな(;´Д`)
> 『Air』では物語の舞台となる時を「1000年目の夏」と表現しているが、だから、実は「翼人」とは1000年のみならず人
> 類の歴史そのものの記憶を懐胎しているということになる。つまり、『Air』における「翼人」とは、そのような災いを呪いとして抱え込んでいるということを意味する以上、人
> 間にとっての時を越えた認識の総体のメタファーなのだと言うことができよう。空を舞い地平の遙か彼方を見晴らすものは大地の神話から自由であると同時に、それを奪われてい
> る。《Summer》編ではその起源を一種の神話(あるいは民話か)の形を借りて説明しているが、これは「信仰」と「知」の分離とそれを巡る闘争の寓話として読み解かれるべきで
> あろう。だがそのような「観る者」「識る者」としての翼人の末裔たちの不幸は単にそのような二項対立が存在するのだという事実を認識し、人間としての自己が「今」を奪われ
> ていることに煩悶するのみではない。時を越えてヒトたちの歴史を眺めやる者たちは、その巨大な流れの一つ一つが無限の内的宇宙を持った人間たちによって構成されているとい
> う事実を直接受け止めねばならなくなるのだ。ただ単に我-汝の関係のみで充足してその相手の自我を受容するのみならず、人類全て、歴史としての人類全ての内的宇宙と向き合
> ってそれがあたかも自らの前に現前するものであるかの如く、いや現前という対象性すらも剥ぎ取られた上でそれらと向き合わねばならないのである。つまり、一人の自己である
> 我に、人類の全てを受容させることをこの認識は強いるのだ。だからこそ観鈴は破綻する。けれども、そのような逃れようのない運命としての悲劇を突き進みつつ、『Air』は
> 「祝福された命」を希う人間の姿を描き出す。人類の文字通りの一切を引き受けることを強いられた(人間の一人である)観鈴は、その呪われた生命を祝福して飛び立つために、
> 自らも一人の人間として敢えて生きることを選び取る。無論、それは「生命の実」を選び取った者たちの如く直接性としての関係に耽溺することによって成就するものでは断じて
> ないし、かといって自らに関わる全ての者たちとの関わりを断ち切って事足れりとするものでも全くない。即ち、この両者を越えた地点にある生を目指し、それを身を以て体現し
> 尽くすことこそ、実は観鈴の言う「ゴール」なのである。そしてゴールは「目的」であり、「死」であった。では、そのような地平にある生が、具現するものとは何なのか。それ
> は個人としての利益=関心、いや利他主義さえも越えたところにある、他者に対する眼差しではないだろうか。いや陳腐な言い方であるとの謗りを恐れずに言うのであれば、それ
> はまさしく広汎な意味においての「愛」とでも呼ぶべきものであろう。特定の対象に向けられた愛ではなく、全ての生きとし生ける者に向けられた慈愛としての愛情。それらを受
> け止め、また自らもそれを与えうるものであろうとしたところに、《Air》編が限りなく美しい物語であるとされる理由がある。つまり、晴子はそこにおいて、一人の個人である
> と同時に、人類の記憶を担うものとして、観鈴に無限の愛情を注ごうとするのだ。そして、観鈴は逆に、人類の記憶を担うものでありつつも、一人の人間として、晴子の想いを受
> け止め、それに応えようとする。この交差する二重の時間性と想いこそが、「幸福」の煌めきを象る。しかしけれども、このような地点は我々にとっては極めて遠いところにある
> だろう。我々はやはり日々の暮らしの中で「知識の実」と「生命の実」の相克に悩み、苦しむ。その先にしか幸福がないということがたとえ分かっていたとしても、それは究極的
> に宗教的な境涯であり、そこへと逢着するためには1000年もの時間が文字通り求められるのであろうし、それに比して我々の生はあまりにも短い。だからこそ最後の場面で登場す
> るのは子供たちなのであり、彼らはこのような歴史の終焉の彼方に位置する。即ち、彼らは全く新たな〈幸福〉の担い手として立ち現れるのだ。けれども、我々はその「過酷な日
> 々を」引き受けるしかない。だが、もし幸福が1000年先であろうともそのような形で光を放つのであるとすれば、祝福された生命のために、そして受け継がれてきた無限の想いを
> 少しでも受け止めるために、眼差しを空へと高くあげることは、決して無意味なことではないのかもしれない。そう、私たちは海よりも遠くへゆけるのだから。
「ゴール」と呟き、息を引き取るのだった。

参考:2009/07/19(日)11時47分39秒