>  2009/10/12 (月) 17:28:52        [qwerty]
> > Aは以前からステレオやペットの鳴き声などで近隣住民とトラブルになったほど悩まされており、
> > 事件直前には、窓やドアの開閉音すら苦痛に感じて、通院するほど精神的に追い詰められていた。
> > 特に、B家に対しては日曜大工や子供の遊ぶ声にも抗議しており、子供の睡眠中は静かにして欲しいとの貼り紙をみて、
> > 「自分の家では迷惑な騒音を出しているにもかかわらず、周りには静かにしろというのは言語道断」と考え、犯行を決意したと後に語っている。
> しかし、同年10月、「拘置所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由でAは控訴を取り下げ。1977年に死刑が確定した。
> 2008年現在も死刑は執行されておらず、東京拘置所に収監中。
> (;´Д`)最高クラスの実刑じゃぁ

1928年(昭和3年)、大浜松三は東京都江東区亀戸で生まれた。
3男3女の三男だった。家業は書店であった。小学校時代は成績優秀で、
ずっと級長だったが、3年生のとき、近所の吃音(きつおん)の子と遊んでいるうち、
自分も吃音するようになって悩んだ。

旧制中学に入り、国語の授業で指されて教科書を読んだが、上手く読めず屈辱的な体験をして、
劣等感を抱いて学習意欲を失い、怠惰になり、みるみる成績が落ちた。

卒業して疎開先の山梨県で敗戦を迎えた。その後は親類の車体組み立て工場に勤めていた。
この頃、吃音はいっそうひどくなって職場ではちょっとしたことで腹を立てた。
また、家庭では兄たちと毎日ケンカして、近所の人と顔を合わせても、目をそらして口をきかなかった。

1948年(昭和23年)、国鉄(現・JR)中央線の東京都国立(くにたち)駅の職員になった。
IQは109あって「頭の良い男」と見られていた。

1951年(昭和26年)、競輪に熱中した挙句、小額の公金を横領して逃げ、
金がなくなると、ひったくりをやって逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の判決を受けて、国鉄を解雇された。
その後、旋盤工場に就職したものの長続きせず、自宅でぶらぶら過ごしていた。

1955年(昭和30年)、家出して、1年ほど東京都港区新橋でホームレスとして過ごした。

1956年(昭和31年)、亀戸の自宅に戻り、再び旋盤工として働き始めるが、工場を次々と替った。
吃音のため先輩に嫌われ、仕事を教えてもらえず、勤労意欲を失ったという。

1959年(昭和34年)、農家の婿養子になったが、妻が別れた前夫と密会しているのが気に入らず、まもなく離婚した。
その後、八王子へ移り、アパート住まいを始めて、日野市の自動車工場で働いた。
アパートの住人はほとんどが夫婦者で小さい子供が多い。しかし、大浜は隣人たちと挨拶を交わさず、
子供に声をかけることもなく「気難しい変わり者」と見られていた。

1963年(昭和38年)ごろ、大浜の身に異変が起きた。
自動車工場は二交替勤務で、夜勤のとき昼間アパートで寝ていると、原因不明の「ドカーン」という音がする。

これが数日続いて眠れなくなった。これは、近所のガラス戸の開閉音が爆弾の炸裂音のように聞こえていたようだ。
大浜はこの音を聞くと、脳が破壊されるような気がするという。

同じアパートの夫婦者に、ステレオの音が大きいと苦情を言って大喧嘩したこともあった。

それ以降、騒音に異常反応を示すようになった。
アパートの子供たちの遊び声がうるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の犬を何匹か殺して、警察に通報されたりした。

1964年(昭和39年)7月、大浜はアパートを出て転職した。

1965年(昭和40年)、知人の紹介で結婚した。妻は明るい性格で気立てが良かったが、
大浜は相変わらず気難しく無口で、妻に対して暴力をふるった。
やがて、仕事を辞めて自宅でぶらぶらし始めた。

そして、雀の鳴き声が気になり始めると、木によじ登ってビニールテープを「雀よけ」と称して張り巡らした。

1967年(昭和42年)、大浜は八王子市内の会社に就職し、夫婦は寮に移った。
ここでしばらく小康状態は保つものの、やがて、隣人の話し声がうるさいと抗議し始め、口論が続いて退職した。

1970年(昭和45年)4月、大浜と妻が神奈川県平塚市田村の県営横内団地34号棟の4階に入居した。
大浜はテレビを見ているときはイヤホンを使っていた。

6月、大浜家に続いて、奥村家の親子4人が階下に入居してきた。
その日に、さっそく棚を取り付けるため、ハンマーでがんがんやり始めた。

静かな夫婦と騒々しい親子が、厚さ12センチの床の上と下で暮らし始めた。

階下の亭主は腕っぷしの強そうな男で、女房は外ですれ違っても、
挨拶するどころか、「フンッ」といった顔つきで大浜を見たりした。

大浜は階下の物音は戸の開閉まで気にしながら、抗議に行ったことはない。
むしろ、自室の物音が階下の一家を刺激して報復を招いていると考えた。
だから、妻に口やかましく注意し、部屋には厚いマットを敷いて、忍び足で歩いた。

にもかかわらず、階下では日曜大工の音が激しくなった。
大浜は日曜はトラブルを避けるため、自分の方が朝から外出した。

1973年(昭和48年)夏ころから、この横内団地で、ピアノやエレクトロンなどの楽器騒音が問題化した。
幼稚園や小学校へ通う子のいる家庭で、競い合うようにしてピアノなどを買うようになり、
部屋を飾るのが流行しはじめ、団地の近くに音楽教室ができたりした。

だが、団地の自治会活動が活発なお陰で、すぐにこのことが議題のひとつに取り上げられ、
音量を絞ったり、練習は昼間だけに限るなど、自粛の約束をつくったりした。
でも、全ての人がこの約束を守っていたわけではなかった。

11月、階下の奥村家にピアノが運び込まれた。小学2年の長女がピアノを習い始めたからである。
その後、毎日、練習曲が響き始めた。

大浜は、その頃、失業しており、妻は愛想を尽かして実家に帰っていた。
階下で、ピアノの練習が始まると、図書館に行って本を読んで一日を過ごしたり、釣りに行って退屈をまぎらわせていた。

「自分だけがなぜこんなに悩まなければならないのか? 自分はもう生きていけない。
自殺するかもしれない。自分はもう死んでもいいけれど、自分をこれほどまでに苦しめた2人の女だけは生かしておけない」

大浜は仕返しをすることを決意し、刺身包丁を買ってきた。

1974年(昭和49年)8月28日、事件が起こる。

参考:2009/10/12(月)17時24分49秒