> 2010/08/20 (金) 14:57:33 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> エロゲソムリエいる?(;´Д`)
、『Kanon』における登場人物が「うぐぅ」や「うにゅ」などの幼児語を使うほど、また
好きな食べ物もほとんどがお菓子の類であるように、極めて精神年齢が低く造形されてい
ることはこの事と無関係ではない。即ち、身体は生物として日に日に成熟していくのにも
関わらず、精神はその出発点において破壊されているがためにまったく成長できないのだ
。むしろ、幼児期を自らの手で幸福という幻影を連れて無限に反復しなければならないほど
、彼女たちの精神風景は荒廃しているのだ。ひとりぼっちでのフォルト・ダーの遊びが、収
束することなく、彼女たちの中では今も
行われている。
それはなぜか。それは、家族という悪夢が現在もなお彼女を取り巻く生活世界の中で進
行し展開されているからだ。いやむしろ、その絶望の圧迫により日に日にその幼児期への
緊急避難は加速していくことになるだろう。例えば、川澄舞が自らの行動にますます異常
性を加えてゆくのは、誰も彼女の内部にうずくまる危機に瀕した子供、自らを確認するた
めに自らを傷つけて満身創痍になっているそ
の哀れな影の絶叫を聞き取ってやることがないからなのだ。
しかし、彼女らはだからこそ救いを求める。微かに垣間見えた奇跡の波動に、全身全霊
を傾けてすがりつこうとする。飢えた獣のように彼女らは自らの修羅を振り払おうともがく。
その姿は尋常ならざるほどの狂気の姿を
帯びるものと「普通」の人々の目には映る。恐らく、このヒロイン達の極限の哀願を感受
できるか否かが、この作品に対する賛否の分かれ目になると私は思うのだ。そして、私は
、この激しい叫哭に感応した側の人間である。
ところが、その奇跡の物語は「にせもの」に降臨することになる。失われた一家団欒、
言葉を媒介せずともそのインナーチャイルドをくるむことができる人間関係。多くの「普
通の」場合、家族というユニットの中でまず最初にその有り様が現れるはずのこのような
関係は、『Kanon』の中では常に血縁関係が
全くない、あるいは希薄な人間同士の「にせもの」の家族関係の中で辛うじてあらわれる。
各ヒロイン達ははじめて、本当に「生まれ
て初めて」の関係の存在をそこに認識するのである。水瀬家という父親不在の奇妙な「機
能不全家族」という環境の中で、月宮あゆ、沢渡真琴ははじめて人間の優しさ、いたわり、
思いやり、といったもののぬくもりの中で
ようやく怯えない関係が存在するということに気付くのであり、その結果沢渡真琴は廃人
同然になってまで水瀬家の一員であろうとする。
また、川澄舞は倉田佐祐理と主人公3人での昼食、正確にはエピローグで語られる3人
での疑似家族での共同生活において、自分が安心して受け容れられている場があるという
ことに気づき、美坂栞は中庭で主人公に買ってきて貰ったアイスクリームを食べて自分の
存在を黙殺しない「兄」がいることを知る。
即ち、栞が寒い中庭で長い間主人公を待っているのは単なる恋愛感情からではないのだ。
自分がこの世界にいるという実感をようやく
持たせてくれた細い細い絆を、あと僅かしかない自分の生を燃やし尽くすように握りし
め抱きしめていたいのだ。その一方、彼女を黙殺していた姉香里は栞の死期が近づいて
ようやく彼女は自らが栞の姉であることを再度人為として選び取る。沢渡真琴の主人公
に対する奇妙な行動も、そのざらつきとじゃれ合いのなかで、自分の存在を正面から受
けとめてくれている人間がいるという事実を感
覚の全てを使って抱きしめていたいのだ。そして月宮あゆはかつて自分を何の打算もなく
好意を持ってくれた唯一の存在が主人公で
あるという、その想いが彼女の存在そのものを生み出すことになっているのである。
その点からすれば川澄舞の物語終盤における不可解な行動には合点がいく。彼女は、
最後の最後まで、自分の絶望を主人公が共にしようとしているということに気付かないで
いる。ひたすら自分の悪夢を追い払うために見境なく暴れ、自傷行為でもある怪異打倒に
半狂乱になって奔走する。だがしかし、そ
の土壇場で、彼女は主人公が彼女の真の苦悩が何であるのかを思い出してくれたという事
実にさらされる。
だからこそ、彼女は切腹するのだ。自分を理解しようと共に傷を負いながら隣にいてく
れた人の気持ちをそれまでまったく分かっていなかったから、彼女はそれまでの自分を全
て清算するために、自らの現在の生そのものを否定しようとするのだ。何の衒いも後ろめ
たさもなく、何ら義務に依るものでもない、本当に何にも根拠を求めない、新しい生を
彼女は求めたのだ。それほどまでに彼女は生きることに疲れ切っていて、真に宥和した新
たな命のためにそれをかなぐり捨てようと自刃したのだ。
そのように、彼女らは文字通り自らの命を懸けてこの「にせもの」の関係をつなぎ止め
ようと抵抗する、あるいは決断して選び取る(この点から言えば名雪シナリオの完成度が
低いのは致し方がない)。そのために栞は恐らく寿命を縮め、沢渡真琴は最後は自我すら
消滅してしまうほどの痴呆になり、川澄舞は
切腹し、月宮あゆはその「にせもの」の価値を永遠にするために自分が忘却されることを
願うのだ。しかし、だからこそ、このような「にせもの」の家族関係は血縁の必然性とい
う暴力=現実を越えて奇跡を呼び起こす。月宮あゆが名雪と栞の物語において、そして何
よりも自らの物語において奇跡を起こすのは、彼女が水瀬家における「にせもの」の家族
関係の中で、自らのインナーチャイルドを癒
し、自分の幼児性に耽溺することなく他者を、「ほんとう」の世界を指向しようと彼女自
身が自らの心に奇跡を起こしたからなのだ。舞が卒業式の日に佐祐理と主人公に代わる代
わるチョップを振りかざす姿は、かつて自分自身を滅ぼすために振りかざしていたその
を、自分を理解しようと、たとえ自分のため
に傷だらけになろうともしてくれた人たちに対する信頼というコミュニケーションに転化させたことの証なのだ。
この地点で、「にせもの」は「ほんとう」を再生させる。何ら必然性や義務性を持たな
いにせものの家族関係は、他者という「ほんとう」を各ヒロインの心の中に奇跡を起こすことで再生させる。『Kanon』は「にせもの
」の「ほんとう」である「家族」の悪夢を告発した上で、「ほんとう」の関係の再生への
淡い期待と願い、その奇跡への祈りを込めた人々の連なり(Kanon)の物語なのである。
だから私はこのあと拙い言葉を少しばかり継ぎ足そう。本来、人と人とのつながりなん
てものはそのはじまりにおいて「にせもの」でしかないのだ、と。そして、それを「ほんと
う」にしていくのは、私たち自身の心の中に起きる、小さな小さな奇跡のつらなりに他ならないのだ、と。
参考:2010/08/20(金)14時52分21秒