2010/10/26 (火) 14:16:25 ◆ ▼ ◇ [qwerty]前橋高校への入学直後から『CQ ham radio』で連載が始まった新しい分野の記事に、
松本は再び挑戦への意欲を刺激されていた。無線通信の電波にテレビ映像を乗せる
アマチュアTV局作りを目指した西村昭義は、一九六九(昭和四十四)年四月号から三回にわたって、
テレビカメラを手作りするための解説記事を連載した。
テレビカメラへの挑戦は、松本にとってもさすがに難題と思われた。
テレビを作るとなれば、まず光の画像を電気の映像信号に変える撮像管と呼ばれる高価な部品が必要になる。
ところが西村によれば、秋葉原にはビジコン管という比較的安い撮像管がジャンクとして出回るようになっており、
これならアマチュアでも手に入れることができるという。カメラには高性能のレンズをと思いがちだが、
西村はこれも天体望遠鏡のキットのもので充分使い物になると書いていた。
最大の問題点は、画像を映像信号に変換するにあたって大きな役割を演じる偏向コイルの製作だった。
どこの家にもあるテレビ受像器のブラウン管の中では、じょうごの筒にあたる部分から打ち出された電子が、
偏向コイルによって曲げられ、蛍光面上の狙ったところを光らせて像を作っている。
撮像管では逆に偏向コイルによって曲げられた電子ビームが順に各点の光の有無を判定して、
結果を電気信号に変えていく。この偏向コイルは大変に高価であり、自作するとなると手巻きして調子を見ては、
もう一度巻きなおす作業を繰り返さざるをえないという。
ただし筆者の西村は、一方で困難を指摘しながらも読者を励ますことを忘れてはいなかった。
「アマチュアたる物、テレビカメラは取っつきにくいと言った先入観にとらわれてはいけない。
まず試みてみる。自分で考え、自分でやってみる。失敗しても何度でもアタックする。
そうした根性こそが、アマチュアの神髄ではないだろうか」(『CQ ham radio』一九六九年四月号
「ジャンクのビジコンを使った「アマチュア局用」テレビカメラの製作」)
だが松本にとっては、厄介な作業も覚悟しなければならないという警告こそが、最大の誘惑の言葉だった。
作り上げることが困難であればあるほど、達成したときの喜びが大きいことを、少年はすでに意識していた。
テレビカメラの製作には、連載の終了と休みを待って、高校一年の夏から取り組んだ。
秋葉原を歩き回ると、記事で使っていたのと同じではなかったが、似たようなビジコン管が一〇〇〇円ほどで買えた。
回路を組み、取りあえずコイルを巻いて作ったカメラに、家庭用のテレビに接続するためのVHF発信器を組み込んで、
絵を出そうと試みた。だが画面上には、まったくもって絵が浮かばない。夏休みが終わっても、
テレビカメラの仕上がりのめどは立たなかった。
新学期が始まってからも、松本の意識はテレビカメラに集中したままだった。記事に紹介されていた参考文献を
調べてテレビを成り立たせている仕組みを勉強しなおし、電磁気学の理論に立ち戻って、
コイルの巻き数を割り出しては何度も巻きなおしてみた。だがどうしてもまともな絵になってくれない。
いつまでも突破口を見いだせず試行錯誤を繰り返しているうちに、片道一時間かかる学校に出て作業を中断する代わり,
一日中テレビカメラと格闘を続けてしまうことが、二日、三日と続くようになった。
両親に叱られては学校に顔を出し、仲間たちとむだ話に興じた。だが泥沼の中でテレビカメラへの執着が強まるにつれて、
反比例するように授業には興味が持てなくなった。
それでも試験には顔を出し、翌年の春には二年に進級できた。テレビカメラはこの時期になっても
なお仕上げることができなかったが、自分の頭だけを頼りに突破口を開こうともがき続ける行為には手応えがあった。
いったんはあきらめかけたが、作業を放り出していると心の中に風穴があいたような寂しさを覚え、
かえっていらいらが増した。連載記事に自宅の住所を掲載し、質問を受け付けるとしていた西村昭義に手紙を書いてみた。
西村からのアドバイスに従って一から回路を見直し、二年生の七月からはもう一度作業に没頭する日々が続いた。
八月に入ると、ぐにゃぐにゃに歪みながらも何とか画像が浮かび上がるようになってきた。
最後の三日間は、徹夜で調整を続けた。コイルをはずしては巻きを調整し、もう一度取り付けては画像を
チェックする作業がえんえんと続いた。秋葉原で調達したビジコン管が、記事で使っていたものとは異なっていたことも手伝って、
最後の調整作業にもさんざん手こずった。
だがフィナーレはついに、そして突然やってきた。