>  2010/12/29 (水) 23:52:17        [qwerty]
> > 始まりなど無く終わりもない
> > 今しかないのだ
> > 未来は確定しておらず無限の可能性を論ずる事などナンセンスだ
> > 過去は記憶の中の残影に過ぎない
> > ならばなぜ我々は経験と言う行動理念を持っているのか?
> > それは手繰り寄せられた主観の糸に過ぎないのだ
> なかなか良い事を言うね
> どこの偉人の言葉だい?

我々は星の輝きを見る
そこには確かに光があるが星を手に入れることなど出来ない
なぜなら手入れた瞬間星は輝きを失うからだ
我々は偉人と呼ばれる者の中に光を見る
神と言う概念を、あるいは絶対と言う概念を
しかし思想或いは思念を共有する事も出来ない
こう言い換えてもいいかもしれない
言語は思想の媒体者である
絶対的真理、これは神に属すがこれを我々は個別に認識する
そしてこれは絶対であるけれども決して理解できる者ではない
なぜならば神は無限であるから有限に属す思考
つまり思考の外に存在する彼岸に位置するからだ
我々はそれを直感する
しかし想像は出来ない
個別に直感的に信じるだけである
さて我々は神について長い間想像、或いは思索してきた
しかしそれは何も物語っていない
なぜなら言語は有限でありそもそも個人間の絶対的共有など不可能だからだ
しかし我々は共感と言う概念でお互いの存在と結びつく
では何故有限であり完璧ではない言語或いは行動によって結ばれるのか?
それは追体験、ないしは思想に触れる事で影響を受けるからだ
これは五感、すなわち感覚によるものではなくただ直感に依存している
つまり考えるのではなく知っているのだ
神は在る
しかし神について何事をも語りえない
謂わば知らぬ事には沈黙を持って対する事しか出来ないように
では何故偉人と呼ばれる思想家が存在し、我々はそれを偉人と認識するのか?
それは思考の、対岸ではないにしろ中間までは行き着いているからである
つまり彼らは充ての無い砂漠に住み着いた思考的定住者である
そしてそれが世俗的概念から遠いほど光り輝いて見えるのである
ちょうど遠くの篝火を見て熱を想像し五感が錯覚を覚えるように
或いは共感を得るような錯覚に陥るように
火にあたる者は暖を得る
それを傍観するものは想像によって、擬似的な暖を得る
しかしここには思考的隔たりがあるのは画然たる事実である
よって偉人とは火を起こす者であり模倣者は火を眺めるものである
しかし我々はそれが暖を与える事を経験によって、場合によっては直感によって知る
それこそが神、或いは絶対者の存在を明確にしているのである

参考:2010/12/29(水)23時30分21秒