> 2010/12/30 (木) 00:26:31 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 我々は星の輝きを見る
> > そこには確かに光があるが星を手に入れることなど出来ない
> > なぜなら手入れた瞬間星は輝きを失うからだ
> > 我々は偉人と呼ばれる者の中に光を見る
> > 神と言う概念を、あるいは絶対と言う概念を
> > しかし思想或いは思念を共有する事も出来ない
> > こう言い換えてもいいかもしれない
> > 言語は思想の媒体者である
> > 絶対的真理、これは神に属すがこれを我々は個別に認識する
> > そしてこれは絶対であるけれども決して理解できる者ではない
> > なぜならば神は無限であるから有限に属す思考
> > つまり思考の外に存在する彼岸に位置するからだ
> > 我々はそれを直感する
> > しかし想像は出来ない
> > 個別に直感的に信じるだけである
> > さて我々は神について長い間想像、或いは思索してきた
> > しかしそれは何も物語っていない
> > なぜなら言語は有限でありそもそも個人間の絶対的共有など不可能だからだ
> > しかし我々は共感と言う概念でお互いの存在と結びつく
> > では何故有限であり完璧ではない言語或いは行動によって結ばれるのか?
> > それは追体験、ないしは思想に触れる事で影響を受けるからだ
> > これは五感、すなわち感覚によるものではなくただ直感に依存している
> > つまり考えるのではなく知っているのだ
> > 神は在る
> > しかし神について何事をも語りえない
> > 謂わば知らぬ事には沈黙を持って対する事しか出来ないように
> > では何故偉人と呼ばれる思想家が存在し、我々はそれを偉人と認識するのか?
> > それは思考の、対岸ではないにしろ中間までは行き着いているからである
> > つまり彼らは充ての無い砂漠に住み着いた思考的定住者である
> > そしてそれが世俗的概念から遠いほど光り輝いて見えるのである
> > ちょうど遠くの篝火を見て熱を想像し五感が錯覚を覚えるように
> > 或いは共感を得るような錯覚に陥るように
> > 火にあたる者は暖を得る
> > それを傍観するものは想像によって、擬似的な暖を得る
> > しかしここには思考的隔たりがあるのは画然たる事実である
> > よって偉人とは火を起こす者であり模倣者は火を眺めるものである
> > しかし我々はそれが暖を与える事を経験によって、場合によっては直感によって知る
> > それこそが神、或いは絶対者の存在を明確にしているのである
> 前半ではアプリオリな概念を
> 後半では「人が到達し得ない真理」といった概念を無根拠に持ち出して
> それを勝手に「神、或いは絶対者」と定義しているので論理学的に価値のない文章だ(;´Д`)
アプリオリな概念が存在する
それが神の存在を絶対的に肯定する
これは疑いようの無い事実である
我々は長い間神について様々な方法で接しようと試みてきた
思想によって、あるいは行動によって
しかし未だ神の存在を否定する事も肯定する事も出来ない
これは有限な思考、或いは行動の制約による限界点である
神は存在する
それを我々は直感的に知る
謂わば共有の認識を我々の中に内包していると言う事である
なるほど私の理論は神と言う絶対者について説明する事も理解する事も放棄しているように見えるかもしれない
しかし我々が意識的にせよ無意識にせよその絶対者を内包している事に変わりは無い
しかしてこの根拠、証拠といても言ってもいいかも知れぬがそれを指し示す事は出来ない
重複になるが神は思考の外に位置するからだ
例えば我々は一つの林檎を見る
それを我々は林檎として認識できる
視覚によって、或いは嗅覚味覚その他感覚によってそれを知る
しかし林檎の個性を考えうるに全てが同一の固体である事は有り得ない
しかし我々はある基準を満たした物体を林檎と名づけ個性を捨て去り認識する
そして林檎と認識された物体、或いは事象は林檎と言う概念に縛られそれ以上でもそれ以下でも無くなる
なぜなら林檎は林檎と言う名前を付けられた時、それ以上の説明を不要とする一定の制限を受けたからである
そして人間の有限的思考認識に置いてそれなんら問題を引き起こさない
さて君は、私が「真理」という概念を無根拠に持ち出し論じていると語る
或いは概念上に位置すると定義し反駁している
しかし考えてみて欲しい
私は最初の序文において世の中は真理に満ちていると語った
それは全てのものがアプリオリ的絶対性を有しているのでありそれこそが神の絶対者たる証拠であると述べた筈である
何故か
我々はアプリオリ的概念を教える事も教わる事も出来ないからで在る
もし自者の中にアプリオリ的概念を他者から受けた認識している者がいたとしよう(そんな事はありえあいのだが)
いや、それを受けたと認識したとすればそれこそ誤りである
なぜならアプリオリ概念は絶対的に他者からの影響を受けないからである
しかし実際その存在は肯定されるであろう事は明白である
意識的にしろ無意識的にしろであるが
真理とは遍く存在するがそれを認識する機会は実に少ない
いや、一生をかけても一つの真理にたどり着く事さえ出来ないかもしれない
しかしだからといって真理が存在しないわけではないのは明白である
そこに神の存在がある
絶対者としての神がいる
なぜなら神は全てを作り常に正しい方向、理念の光として輝くだけに過ぎないからである
なるほど君は根拠を欲しているらしい
私もそうだ
しかし知らぬものは語れぬ
なぜなら我々は有限であり神は無限であるから
参考:2010/12/29(水)23時58分20秒