> 2010/12/30 (木) 00:27:12 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 前半ではアプリオリな概念を
> > 後半では「人が到達し得ない真理」といった概念を無根拠に持ち出して
> > それを勝手に「神、或いは絶対者」と定義しているので論理学的に価値のない文章だ(;´Д`)
> アプリオリな概念が存在する
> それが神の存在を絶対的に肯定する
> これは疑いようの無い事実である
> 我々は長い間神について様々な方法で接しようと試みてきた
> 思想によって、あるいは行動によって
> しかし未だ神の存在を否定する事も肯定する事も出来ない
> これは有限な思考、或いは行動の制約による限界点である
> 神は存在する
> それを我々は直感的に知る
> 謂わば共有の認識を我々の中に内包していると言う事である
> なるほど私の理論は神と言う絶対者について説明する事も理解する事も放棄しているように見えるかもしれない
> しかし我々が意識的にせよ無意識にせよその絶対者を内包している事に変わりは無い
> しかしてこの根拠、証拠といても言ってもいいかも知れぬがそれを指し示す事は出来ない
> 重複になるが神は思考の外に位置するからだ
> 例えば我々は一つの林檎を見る
> それを我々は林檎として認識できる
> 視覚によって、或いは嗅覚味覚その他感覚によってそれを知る
> しかし林檎の個性を考えうるに全てが同一の固体である事は有り得ない
> しかし我々はある基準を満たした物体を林檎と名づけ個性を捨て去り認識する
> そして林檎と認識された物体、或いは事象は林檎と言う概念に縛られそれ以上でもそれ以下でも無くなる
> なぜなら林檎は林檎と言う名前を付けられた時、それ以上の説明を不要とする一定の制限を受けたからである
> そして人間の有限的思考認識に置いてそれなんら問題を引き起こさない
> さて君は、私が「真理」という概念を無根拠に持ち出し論じていると語る
> 或いは概念上に位置すると定義し反駁している
> しかし考えてみて欲しい
> 私は最初の序文において世の中は真理に満ちていると語った
> それは全てのものがアプリオリ的絶対性を有しているのでありそれこそが神の絶対者たる証拠であると述べた筈である
> 何故か
> 我々はアプリオリ的概念を教える事も教わる事も出来ないからで在る
> もし自者の中にアプリオリ的概念を他者から受けた認識している者がいたとしよう(そんな事はありえあいのだが)
> いや、それを受けたと認識したとすればそれこそ誤りである
> なぜならアプリオリ概念は絶対的に他者からの影響を受けないからである
> しかし実際その存在は肯定されるであろう事は明白である
> 意識的にしろ無意識的にしろであるが
> 真理とは遍く存在するがそれを認識する機会は実に少ない
> いや、一生をかけても一つの真理にたどり着く事さえ出来ないかもしれない
> しかしだからといって真理が存在しないわけではないのは明白である
> そこに神の存在がある
> 絶対者としての神がいる
> なぜなら神は全てを作り常に正しい方向、理念の光として輝くだけに過ぎないからである
> なるほど君は根拠を欲しているらしい
> 私もそうだ
> しかし知らぬものは語れぬ
> なぜなら我々は有限であり神は無限であるから
はい
参考:2010/12/30(木)00時26分31秒