> キチガイの戯言か キチガイという認識は君が経験によって得られたものだ 思推の中にキチガイという概念があり私がその範疇に納まったことの証明である しかし私は私の中でキチガイではない これは「キチガイ」をいう名前によって、或いはレッテルによって引き起こされた思考的言語認識である つまり私と君とではキチガイにたいして隔たりの在る認識をしていると言う事になる しかし我々はキチガイを知っている それは言語によって媒介されある種の共有状態を生み出している ここに言語の可能性と限界が見られる さて戯言についてである 我々はいったいどんな戯言以外を発言できるのだろうか? 言語は有限である 言語にはある種のファクターがかかる それを認識し再構築したうえで共有の部分が生まれる しかし完全な認識は共有できないのである ちょうど異なる円が共有する部分はあるにせよ必ずしも一致しないように 参考:2010/12/30(木)00時29分19秒