> 2010/12/30 (木) 01:03:07 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > キチガイという認識は君が経験によって得られたものだ
> > 思推の中にキチガイという概念があり私がその範疇に納まったことの証明である
> > しかし私は私の中でキチガイではない
> > これは「キチガイ」をいう名前によって、或いはレッテルによって引き起こされた思考的言語認識である
> > つまり私と君とではキチガイにたいして隔たりの在る認識をしていると言う事になる
> > しかし我々はキチガイを知っている
> > それは言語によって媒介されある種の共有状態を生み出している
> > ここに言語の可能性と限界が見られる
> > さて戯言についてである
> > 我々はいったいどんな戯言以外を発言できるのだろうか?
> > 言語は有限である
> > 言語にはある種のファクターがかかる
> > それを認識し再構築したうえで共有の部分が生まれる
> > しかし完全な認識は共有できないのである
> > ちょうど異なる円が共有する部分はあるにせよ必ずしも一致しないように
> > 言語にはある種のファクターがかかる
> この部分が理解できなかった
つまり言語的が持つ本質的な問題点は種々個人的認識により左右されると言う事である
ファクター、因子と呼んでも差し支えないのだが言語学上ファクターで通すが
思考的或いは実際的に得られた結果や過程を五感を通して再構築する
そしてそれを再言語化して発する時、それとは別の、
経験や認識(或いは意思的)的概念から再々構築されたものを発する
つまりどういつの「名前」は様々なファクターかが絡み合って出来た合成的言語であるが
全てのものに絶対性がある以上真理を内包しているのだからその部分に共感共鳴出切れば問題ないのである
つまり彼から見れば私はキチガイたる諸条件をクリアしている存在である
彼だけではない、多数の人間が私をキチガイだと認識する事もありえる
しかし私の中ではキチガイという範疇にはいささか入らない、いわば重要なファクターをクリアしていないのだ
よって彼との認識的相違が言語として表面化しただけのことである
参考:2010/12/30(木)00時42分18秒