2011/03/04 (金) 01:17:06 ◆ ▼ ◇ [qwerty]冒険譚とは「外に向かう話」だ。
海の向うにお宝がある。海に出るには船が要る。船乗りは荒くれ者。
だから主人公は能動的で好奇心があって大人が肩入れするほど漢気のある少年になる。
宮崎駿、出崎、りんたろうが創った最も偉大なテンプレだ。
これとは逆なのがディストピア「核心に向かう話」。
平凡な主人公が世界のほころびに気付き、非常識な現実に向き合う物語。
これは街がひとつあればいい。どこにも逃げられない状況が緊迫感を生む。
船はいらないのだ。街から脱出したらそこで話は終わってしまうじゃないか。
フラクタルは、ディストピアを描いているのに、冒険譚の体裁をとっている。
だから不愉快なのだ。話が始まらないし進まないし転がせない。
この話には小道具はいらない。
平凡なクレインがネッサと出会う。ネッサはデータだが実体を持っている。
二人は恋仲になるがフラクタルシステムがダウンし、ネッサは消える。
クレインはネッサを取り戻すためにシステムを復旧しようと決意する。
ところがフラクタル難民の前に実存主義指導者フリュネがあらわれる。
クレインはリアルな土の生活も正しいのではないかと決意がゆらぐ。
システムを取り戻すにはフリュネの命がいる。彼女は主人公に惚れている。
さて、クレインはリアルを選ぶのかデータを選ぶのか。
こうではないのか?
少なくとも船でだらだら遊覧飛行をしている場合ではないと思うが。