> 2012/01/14 (土) 08:13:51 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 歌手とか謎の敵とか聖遺物とかグングニールとか暴走とか恥ずかしい技名とか満載過ぎるよね(;´Д`)
> > この3分の1くらいの設定材料で上手く回せば十分なのにごちゃ混ぜ過ぎて方向性がわからなくなってる
> 奏「生きるのを諦めるなッ!」
> 響「生きるのを諦めないでッ!」
> 繰り返され、受け継がれた事からも
> この言葉が作中で強い意味を持つ事は明白ながら、
> 一方で作品は響の墓から始まり、絶唱後崩れ散る奏を描いている。
> そこにある「違和」そのものが肝、と言いましょうか。
> 「生きるのを諦めない」人が、何故、いかに「死ぬ」か。
> それは逆説的に「生きること」を描く事になる。
> 墓前で泣き崩れる未来が、また響の生存を確認し安堵の笑みを浮かべる奏が。
> 彼女達の様子がいかに
> 「死が痛ましく、生が素晴らしいか」を描きながらも
> そこを飛び越えてゆく少女達の「生き方」とは何なのか。
> 無残に死んでいく観客や住人が「死にたくない!」と叫ぶのは
> 決して単なる悪趣味ではなく。
> 生存の意志があっても、生きられない人がいる。
> 冒頭の墓前で泣く未来を見ればわかるように
> そんなキャラクターひとりひとりにも、未来のように死を悲しむ人はいる。
> そこで「生きる事」の価値や「生きる事を選びうる事」の意味を問うているのでしょう。
> そこには、与えられた役割に対し尻込みをするような
> 「物語に選ばれたものを留める、物語的ノイズ」は、限りなく少ない。
> 『フラクタル』『ギルティクラウン』など、「そう簡単にできない僕等」
> (個人的には『放課後ウインド・オーケストラ』等も?)
> という文脈があったとしても、それを「諦めるなッ!」の伝播継承で
> 一言の元に踏み越えてゆく、変わりうる人間への圧倒的信頼。
> それがこの「生き様の物語」の根幹をなすものです。
> 単純に、金子さんが活躍された90年代的決断感という言い方も可能でしょうが
> 今この時代、一巡してこの主張を行う価値はあると思っています。
> http://rui-r.at.webry.info/201201/article_1.html
頑張って長文読んだけど全然共感できないな(;´Д`)
参考:2012/01/14(土)08時08分07秒