> 2012/01/14 (土) 08:16:24 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 奏「生きるのを諦めるなッ!」
> > 響「生きるのを諦めないでッ!」
> > 繰り返され、受け継がれた事からも
> > この言葉が作中で強い意味を持つ事は明白ながら、
> > 一方で作品は響の墓から始まり、絶唱後崩れ散る奏を描いている。
> > そこにある「違和」そのものが肝、と言いましょうか。
> > 「生きるのを諦めない」人が、何故、いかに「死ぬ」か。
> > それは逆説的に「生きること」を描く事になる。
> > 墓前で泣き崩れる未来が、また響の生存を確認し安堵の笑みを浮かべる奏が。
> > 彼女達の様子がいかに
> > 「死が痛ましく、生が素晴らしいか」を描きながらも
> > そこを飛び越えてゆく少女達の「生き方」とは何なのか。
> > 無残に死んでいく観客や住人が「死にたくない!」と叫ぶのは
> > 決して単なる悪趣味ではなく。
> > 生存の意志があっても、生きられない人がいる。
> > 冒頭の墓前で泣く未来を見ればわかるように
> > そんなキャラクターひとりひとりにも、未来のように死を悲しむ人はいる。
> > そこで「生きる事」の価値や「生きる事を選びうる事」の意味を問うているのでしょう。
> > そこには、与えられた役割に対し尻込みをするような
> > 「物語に選ばれたものを留める、物語的ノイズ」は、限りなく少ない。
> > 『フラクタル』『ギルティクラウン』など、「そう簡単にできない僕等」
> > (個人的には『放課後ウインド・オーケストラ』等も?)
> > という文脈があったとしても、それを「諦めるなッ!」の伝播継承で
> > 一言の元に踏み越えてゆく、変わりうる人間への圧倒的信頼。
> > それがこの「生き様の物語」の根幹をなすものです。
> > 単純に、金子さんが活躍された90年代的決断感という言い方も可能でしょうが
> > 今この時代、一巡してこの主張を行う価値はあると思っています。
> > http://rui-r.at.webry.info/201201/article_1.html
> 頑張って長文読んだけど全然共感できないな(;´Д`)
シンフォギアの死は軽過ぎるよ(;´Д`)
参考:2012/01/14(土)08時13分51秒