2013/05/05 (日) 18:56:37        [qwerty]
「水子霊」の仕掛け人

水子地蔵の供養という風習は江戸時代からありました。当時は「すいじ」と呼んだそうです。

堕胎することを「水にする」、流産を「水になる」と呼び、水子(すいじ)は流死産した胎児をさしていました。

 これに生後まもなく死亡した幼児も含めて、成人とは異なる葬送をし、一般の墓とは区別して埋葬するという民間風習もありました。
「(水子は)人間の子と考えず、まだ神の子という考え方」(平凡社『大百科事典』)だったからです。

人の世の汚れにまみれていない水子が、人にたたるわけがない。当時の水子供養はたたりとは無関係だったと考えられています。

では、水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。
だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。岩波『仏教辞典』も、 「一九七〇年代から」と書いています。

一九七一年、埼玉県秩父山中に「紫雲山地蔵寺」が完成。落慶式には佐藤栄作首相(当時)らも参列しました。建立者は
反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。

寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。

これが水子ブームのはしり。水子地蔵や観音を売る石材店が、全国に広がりました。週刊誌もこぞって「水子霊」ものを載せました。

一九七五年といえば戦後三十年。敗戦の混乱期、流産や中絶をせざるをえなかった女性は少なくありません。そんな彼女たちの暮らしに
一区切りがつき、つらいあのころを思い出すころです。更年期にさしかかり、体調への不安と悲しい思い出を重ねあわせても不思議はありません。

従来の素朴な水子供養に「霊とたたり」を持ち込むことで、人々の痛みや不安を増幅させ、
法外ともいえる供養金をださせる。こんなことが許されるのでしょうか。