J・デリダが「私」という語はその使用者が死んだ後にも意味作用を持ち続けるという理由で 「私」が今現在指し示すものはいわば「おまけ」に過ぎないと主張したのに対し、永井均が そうした全てがその「おまけ」の中で起こっているではないかと反論したのは有名だよね(^Д^)ギャハ!