> 2006/01/27 (金) 16:53:28 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 今日知り合いにぁゃιぃについて2 ch経由で尋ねられたんだけど、その際にワタクシしっかりと、
> > 拡大資本主義経済構造下において真善美と妄信的に顕揚される実利主義的生産主義の至上命題である
> > 有用性にしか美を感受出来ない近代市民社会的感性に毒され、それを対象化することを通してパロ-ル的主体で
> > ある我々が一挙手一投足一言一句の裡に意識無意識関わらず窮極的に希求するところであるバタイユ的「至高性」の
> > 感情を自覚的に享受せんとすることさえもままならない蒙昧主義バカとは違い、有機性の死=一者性の悦楽に最も
> > 根源的に肉薄しながら敢えてそれに到達しない必然的な宙づり状態であるエクスタシ-の永劫回帰的反復としての
> > 「至高性」の感情へと、つまり言語内存在としての人間実存が捕縛されるところである四大エコノミ-に
> > 回収されることのない次元へと我々を導いてくれる、「実存」の牢獄からの逃走方法の一つとしての「消尽」へと
> > 我々を普遍的に開いてくれる、そんなぁゃιぃの素晴らしさをしっかりと説諭しておいたヨっ!(*゚Д゚*)
> びっくりするほど内容がなくて笑った(;´Д`)でかした
それは某Jの昔の投稿だと思うが、粗雑な文章を根気強く読み解いてみたところ、
バタイユ的な蕩尽の到達し得なさというのは、蕩尽それ自体の到達し得なさというのではなく、
その瞬間的な、つまり純粋経験的な意識との係わり合いの中での到達し得なさなのであって、
あやしいをその普遍的な門戸と見なすその見方は、むしろバタイユ的な破壊の対象なのではないか、
と思ったのだがいかがであろうか
参考:2006/01/27(金)16時48分09秒