2006/02/10 (金) 10:35:38        [qwerty]
ある時キリスト教徒を交えて聖書について話していた
俺はゆかりんを中心とした悪魔崇拝者だけど
聖書や宗教については興味があった
それで
「新約聖書にとって重要なのはマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネの福音書面白いのはそこだけで
新約聖書を知るにはあとルカ伝後編と言える使徒言行録とキリスト教の体現であるヨハネの黙示録だけで良い
旧約聖書も似たようなものだが半分くらいは意味不明で不要」
と言ったら…クリスチャン餃子とでも言う仮名を使おうか…餃子が俺を
「聖書の教えを理解できない低脳は聖書を読むな」と噛み付いた
そうするともう一人いたクリスチャン王将が
「聖書には聖書を理解できないものを貶して良いとは書いてない」
みたいな批判を餃子にした
すると餃子は聖書に出てくる種を蒔く人の例えなんかを言って反論した
この時俺はははぁ…と感心した
同じ宗教の信者でも解釈が全然違うんだ、と
餃子は聖書は絶対であるので理解できない奴に聖典を手にする刺客はない
と解釈したが王将の方は
聖書を理解できない人間を痛めつける必要はないそれより話を易しくして分からせるべきだ
と主張してるわけだな(゚Д゚)同じ敬虔なクリスチャンであるのにも関わらず
彼等二人は人間として考え方が違うんだ(;´Д`)色々考えさせられたよ