>  2006/03/30 (木) 04:15:07        [qwerty]
> > 視点の取り方に過ぎない、っていうのは結局相対論的なパラダイム=教説によるものじゃないですかね?
> > 要するに、科学的に見られた現実、例えば心臓が動いてそれが血液を循環させて
> > と言ったようなモデル、が帰納法に基づいて新たなるモデルを再生産させている
> > ってことですよ
> > もし人間に心臓があるということを否定し、空間や時間と言った科学モデルを否定するような人が出てきたとしても、
> > 科学はその人に対してあまりにも没交渉だろうし、あるいはその人を否定し、蔑みすらするだろうということです
> 貴殿はたぶん勘違いをしているんじゃないかな
> >相対論的なパラダイム=教説によるものじゃないですかね?
> これじゃあよくわからない
> 確かに単なる相対主義のようなところはあると思うけどね
> どれについても究極的なところでは断定しない
> その教説やパラダイム各々についていった後で必ず譲歩節をつけると言えばいいかな
> 数学や純粋な論理でもない限りあくまでも仮説としてしか言わないんだよ
> だからこそ常識的なことについても追試し続ける
> 心臓があることを否定し、空間や時間を否定する人がいても
> それが上手く実際に現実に適合すれば認めるだろうよ
> モデルは何だっていいんだ
> もちろんその時点でその分野の科学者が用いているモデルと
> あまりにかけ離れていれば最初蔑みもするだろうし受容に時間はかかるだろうけどね
> でもそれだけだ

例えばある人が放射線科学の研究室に入り込んで研究者に向かって、「実は放射線なんてないんですよ、ぼくの体系では」
と言って自分の体系を一から説明したとしても彼らはそんなことはどうでもいいと
感じるのではないでしょうか
どんな体系であろうと世界をよりよく説明できればその方法は問わない、と感じるような人間は、
もちろん多くいることはいるが、それは科学者ではなく、科学者ではない別の人種が
単に世界の実像を知る手段として科学を選んだ、というだけの話であって、彼らは哲学者や文学者や宗教家と
変わるところがないある種の性質を持った人間として区分されるべきじゃあないでしょか

参考:2006/03/30(木)03時59分02秒