> 2006/03/30 (木) 04:22:33 ◆ ▼ ◇ [qwerty]> > 貴殿はたぶん勘違いをしているんじゃないかな
> > >相対論的なパラダイム=教説によるものじゃないですかね?
> > これじゃあよくわからない
> > 確かに単なる相対主義のようなところはあると思うけどね
> > どれについても究極的なところでは断定しない
> > その教説やパラダイム各々についていった後で必ず譲歩節をつけると言えばいいかな
> > 数学や純粋な論理でもない限りあくまでも仮説としてしか言わないんだよ
> > だからこそ常識的なことについても追試し続ける
> > 心臓があることを否定し、空間や時間を否定する人がいても
> > それが上手く実際に現実に適合すれば認めるだろうよ
> > モデルは何だっていいんだ
> > もちろんその時点でその分野の科学者が用いているモデルと
> > あまりにかけ離れていれば最初蔑みもするだろうし受容に時間はかかるだろうけどね
> > でもそれだけだ
> 例えばある人が放射線科学の研究室に入り込んで研究者に向かって、「実は放射線なんてないんですよ、ぼくの体系では」
> と言って自分の体系を一から説明したとしても彼らはそんなことはどうでもいいと
> 感じるのではないでしょうか
> どんな体系であろうと世界をよりよく説明できればその方法は問わない、と感じるような人間は、
> もちろん多くいることはいるが、それは科学者ではなく、科学者ではない別の人種が
> 単に世界の実像を知る手段として科学を選んだ、というだけの話であって、彼らは哲学者や文学者や宗教家と
> 変わるところがないある種の性質を持った人間として区分されるべきじゃあないでしょか
本当に全然体系が違うなら放射線という言葉も意味が違ってくるから
ないんですよと答えるのは当然じゃないのかね
ないというより対応するものが存在しないと言うだけだと思う
あくまでも現実を記述しようとしている体系であることを前提するなら
目の前にある放射線に当たる何かを含んでいないのはおかしいから
仮定としておかしいと思うけれど
そしてその体系が現在ある体系よりよく現実を説明するとか現実に適合しているとか
実験結果にあうとか全く同じ程度に説明するけれどよりシンプルであるというなら
拒否する科学者はいないと思うよ
これは本当に
もちろんある程度受容に時間はかかるだろうけれど
参考:2006/03/30(木)04時15分07秒