しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。 この手紙があなたの手に落ちる頃(ころ)には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。 妻は十日ばかり前から市ヶ谷(いちがや)の叔母(おば)の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。 私は妻の留守の間(あいだ)に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。 私は私の過去を善悪ともに他(ひと)の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。 私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己(おの)れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一(ゆいいつ)の希望なのですから 私が死んだ後(あと)でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」