>  2006/08/20 (日) 04:19:40        [qwerty]
> >  南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで
> > 「これはわれわれの猫だ」「いや、こちらの猫だ」と言い争っていた。
> >  そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出していった。
> > 「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
> >  だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。
> >  夕刻になり高弟の趙州が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。
> >  すると趙州は、履いていた草履を頭に乗せ、すーっと部屋を出ていった。
> > 「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」
> >  南泉は、そういって非常に残念がった。
> 解説頼む

 まず、どういう状況であったのかはわからないが、「この猫は自分のもの
だ」などと言い争いをしていること自体、かりにも仏道修行する者にとっ
て、あまりにも低いレベルであることを認識する必要がある。これには師匠
もあきれてしまったことだろう。だが、殺生を禁じる仏教修行者が、猫を殺
すというのだから、よほどのことであると考えなければならない。不殺生は
もっとも大切な戒律である。なのに、仏道にかなう言葉を発しなければ、猫
を切り捨てるというのだ。そして、実際に切り捨ててしまったのである。
 この世の中は無常であり、何一つとして「自分のもの」はない、というの
が仏教の根本的な教えである。何一つ、自分の所有物ではないのだから、そ
れが猫であれ何であれ、自分のものと考えること自体がおかしい。また、そ
れゆえに、その猫を自分の思うようにしていいということもない。
 なのに、師匠は、その猫の首をつかんで、この猫を切り捨てるぞ、といっ
ているのだ。師匠であっても、そのような権利はない。猫は誰の所有物でも
ないから、猫の生命を自分の思うようにすることはできないのである。
 つまり、実はこのとき、師匠も同じ間違いを(もちろん故意に)犯して見
せたということなのだ。弟子は驚いたことだろう。殺生をかたく禁じる仏教
の師匠が、猫を殺すというのだから。しかし、本質的に同じ間違いを自分た
ちがしていたということが、弟子達にはわからなかった。師匠が、実にイン
パクトをもったやり方で、弟子達のあやまちを身をもって示してあげたの
に、その姿に自分たちの愚を発見することができなかったのである。
 おそらく、このときに、「仏道の道にかなった言葉」というのは、あまり
意味のないことであっただろう。おそらくどのような理屈をいっても、師匠
は納得しなかったであろう。本当に師匠の姿に自分たちの愚を見たならば、
恥ずかしくて言葉など出なかったであろうからだ。せいぜい、懺悔の言葉を
吐くくらいであろう。懺悔の言葉を吐けば、師匠も許してくれたかもしれな
いが。
 この話を聞いた高弟の趙州は、このような意図を理解したので、いかにお
かしなことをしているか、ということを、師匠と同じように示すために、本
来は足に履くべき草履を頭に乗せて、スーッと出ていった(ことで返答し
た)のである。
 すでに述べてきたように、禅の世界では、言葉で説明するということはし
ない。弟子達の言い争いが、仏道の教えに反していかに馬鹿げているかとい
うことを、説明によって理解させる手段はとらない。なぜなら、説明して
も、それは頭だけの観念で終わってしまうからである。禅では、とにかく、
直裁に、ダイレクトに、真実を指し示す。それがあまりにも直接的なので、
多くの人は理解できないのだが、しかし、師匠が身をもって示す行為から学
び取れないようでは、弟子としてまだまだ及ばない、ということでもある。

参考:2006/08/20(日)04時12分47秒