>  2006/08/20 (日) 04:21:26        [qwerty]
> > 解説頼む
>  まず、どういう状況であったのかはわからないが、「この猫は自分のもの
> だ」などと言い争いをしていること自体、かりにも仏道修行する者にとっ
> て、あまりにも低いレベルであることを認識する必要がある。これには師匠
> もあきれてしまったことだろう。だが、殺生を禁じる仏教修行者が、猫を殺
> すというのだから、よほどのことであると考えなければならない。不殺生は
> もっとも大切な戒律である。なのに、仏道にかなう言葉を発しなければ、猫
> を切り捨てるというのだ。そして、実際に切り捨ててしまったのである。
>  この世の中は無常であり、何一つとして「自分のもの」はない、というの
> が仏教の根本的な教えである。何一つ、自分の所有物ではないのだから、そ
> れが猫であれ何であれ、自分のものと考えること自体がおかしい。また、そ
> れゆえに、その猫を自分の思うようにしていいということもない。
>  なのに、師匠は、その猫の首をつかんで、この猫を切り捨てるぞ、といっ
> ているのだ。師匠であっても、そのような権利はない。猫は誰の所有物でも
> ないから、猫の生命を自分の思うようにすることはできないのである。
>  つまり、実はこのとき、師匠も同じ間違いを(もちろん故意に)犯して見
> せたということなのだ。弟子は驚いたことだろう。殺生をかたく禁じる仏教
> の師匠が、猫を殺すというのだから。しかし、本質的に同じ間違いを自分た
> ちがしていたということが、弟子達にはわからなかった。師匠が、実にイン
> パクトをもったやり方で、弟子達のあやまちを身をもって示してあげたの
> に、その姿に自分たちの愚を発見することができなかったのである。
>  おそらく、このときに、「仏道の道にかなった言葉」というのは、あまり
> 意味のないことであっただろう。おそらくどのような理屈をいっても、師匠
> は納得しなかったであろう。本当に師匠の姿に自分たちの愚を見たならば、
> 恥ずかしくて言葉など出なかったであろうからだ。せいぜい、懺悔の言葉を
> 吐くくらいであろう。懺悔の言葉を吐けば、師匠も許してくれたかもしれな
> いが。
>  この話を聞いた高弟の趙州は、このような意図を理解したので、いかにお
> かしなことをしているか、ということを、師匠と同じように示すために、本
> 来は足に履くべき草履を頭に乗せて、スーッと出ていった(ことで返答し
> た)のである。
>  すでに述べてきたように、禅の世界では、言葉で説明するということはし
> ない。弟子達の言い争いが、仏道の教えに反していかに馬鹿げているかとい
> うことを、説明によって理解させる手段はとらない。なぜなら、説明して
> も、それは頭だけの観念で終わってしまうからである。禅では、とにかく、
> 直裁に、ダイレクトに、真実を指し示す。それがあまりにも直接的なので、
> 多くの人は理解できないのだが、しかし、師匠が身をもって示す行為から学
> び取れないようでは、弟子としてまだまだ及ばない、ということでもある。

ようするに宗教はろくでもないことだということだな(;´Д`)

参考:2006/08/20(日)04時19分40秒