>  2007/01/31 (水) 02:25:53        [qwerty]
> > そうなんだろうなぁ(;´Д`)そうすると学校って邪魔だよね
> > ロースクールの子らがよくわかんない英語な文献を必死に訳したりする必要があったりするのとかと同じ
> > 多かれ少なかれ学校って個人に対する制限としてしか働かないのかもね
> 逆に見るとその制限の中でどれだけまともなことが出来るかを選別するのが入試となるな(;´Д`)

それは現状肯定というか結果的にそうなってるってだけの話で(;´Д`)
制度の合理性の観点からすると単に不合理なだけだよ
長くなるけどこの手の話は太宰の以下を思い出すよ(;´Д`)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card42354.html
「大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害が踏切台となる者であります。
 伝える所では、ミケランジェロがモオゼの窮屈な姿を考え出したのは、大理石が不足した
 お蔭だと言います。アイスキュロスは、舞台上で同時に用い得る声の数が限られている事に
 依て、そこで止むなく、コオカサスに鎖(つな)ぐプロメトイスの沈黙を発明し得たので
 あります。ギリシャは琴に絃を一本附け加えた者を追放しました。芸術は拘束より生れ、
 闘争に生き、自由に死ぬのであります。」
 なかなか自信ありげに、単純に断言している。信じなければなるまい。
 私の隣の家では、朝から夜中まで、ラジオをかけっぱなしで、甚だ、うるさく、私は、
自分の小説の不出来を、そのせいだと思っていたのだが、それは間違いで、此の騒音の障害を
こそ私の芸術の名誉ある踏切台としなければならなかったのである。ラジオの騒音は決して
文学を毒するものでは無かったのである。あれ、これと文学の敵を想定してみるのだが、
考えてみると、すべてそれは、芸術を生み、成長させ、昇華させる有難い母体であった。
やり切れない話である。なんの不平も言えなくなった。私は貧しい悪作家であるが、けれども、
やはり第一等の道を歩きたい。つねに大芸術家の心構えを、真似でもいいから、持っていたい。
大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害を踏切台とする者であります、と祖父のジイドから、
やさしく教えさとされ、私も君も共に「いい子」になりたくて、はい、などと殊勝げに首肯
(うなず)き、さて立ち上ってみたら、甚だばかばかしい事になった。自分をぶん殴り、
しばりつける人、ことごとくに、「いや、有難うございました。お蔭で私の芸術も
鼓舞されました。」とお辞儀をして廻らなければならなくなった。駒下駄で顔を殴られ、
その駒下駄を錦の袋に収め、朝夕うやうやしく礼拝して立身出世したとかいう講談を寄席で
聞いて、実にばかばかしく、笑ってしまったことがあったけれど、あれとあんまり違わない。
大芸術家になるのもまた、つらいものである。などと茶化してしまえば、折角のジイドの言葉も、
ぼろくそになってしまうが、ジイドの言葉は結果論である。後世、傍観者の言葉である。

参考:2007/01/31(水)02時16分59秒