2007/04/03 (火) 23:59:04 ◆ ▼ ◇ [qwerty] 明治26(1893)年、一人のインド人青年が苦難のすえ、来日した。
英国の植民地化した祖国で綿紡績の起業に燃える青年は、日印航路を切望、奔走した。
当時、日印航路は英国系など欧州三社が独占、運賃は高止まりし、弊害あらわだった。
受けて立ったのは、日本郵船である。政府の殖産興業政策の核は紡績業で、
その発展には廉価、優良なインド綿花が不可欠だった。
青年と日本郵船はついに、ボンベイ定期航路を開く。これが日本初の遠洋定期航路である。
欧州三社との競争は激烈を極め、特に英国系は「運賃引き下げのほか、あらゆる手段を
弄して当社を抑圧」(日本郵船社史)、日本郵船は多大な損害を出しながら、耐え切った。
青年の名は、J.M.Tata。 今日、インドGDPの3%弱に当たる年商2兆円超を誇るタタ財閥の
創始者である。この歴史的逸話は、創始者を曽祖父に持ち、現在タタ財閥をを率いる
ラタン・タタ氏(写真)がある日本の金融機関首脳に披露したのだった。彼は、明治の産業人の
使命感、貧するなかでリスクをとる大胆さ、忍耐強さを賞賛、かつ感謝し、こう皮肉を付け加えた。
「最近の日本企業は売り買いのビジネスばかりで、資本を入れようとしない」。
政財一体化した欧米、中国、韓国企業のインド進出の加速に比べ、日系の出遅れが
指摘されて久しい。及び腰で中国市場の先行者利益を逸した十数年前と同じ構図である。