>  2007/10/30 (火) 19:03:46        [qwerty]
> > 別に知らないというかどうでもいいけどさ(;´Д`)東浩紀みたいのでしょ?
> > ソーカル事件とかこれもよく知らんけどポストモダンと呼ばれてるものは
> > 文章こちょこちょいじっただけみたいな論争があったらしいし
> > 東浩紀もオタク側からの評価は
> > 「それは今までのオタク評論家やオタクが言ってた事を言い替えただけ」
> > みたいな批判で結局落着くし
> > 諸子百家やソクラテス時代からの花の赤は存在するか?白い馬の白さは実在するか?
> > みたいな方がまだ知的にみえるよ(;´Д`)
> しかし貴殿のいいたいことは私にはよくわからないが(彼女とははるか彼方の女と書く、女性とは向こう岸の存在だ)、
> 貴殿が花の赤は存在するかという問いを即ち形而上学的問いとして捕らえておりそれこそが
> 哲学の至上命題だと考えているのだとしても、これはハイデガーもフレーゲも指摘するところだが、
> その形而上学の源泉には言語というものがなければならないし、言語が問題だとするならば
> そこから発せられる形而上学的問いと批評・評論における存在の開示との差はいったいどこにあるのだろうか?

ああごめん(;´Д`)誤解を生む書き方だったね
ポストモダンがそういう論争にあるけどそれはそれとして
東浩紀にはオタク側から見たらなんの価値もないよねということを書きたいつもりだった
文意を伝えられてないね

紀元前中国だったら名家の「白馬非馬」という思想とか
古代ギリシア哲学だったら現実主義、スコラ哲学まで行ったら唯名論とか
「花の色は存在するのか?」
は単に古典的な哲学的言及に関する一例と思っただけだよ
「白馬非馬」というのはちょっと意味が違うかもしれんけど(;´Д`)

参考:2007/10/30(火)18時56分20秒